NO.074 YAKAZA ENSEMBLE meets SYUNOVEN ART EXHIBITION 2012

May 26, 2012

時が経つのは早いもので、、 1ヶ月以上放置していたのは眠っていた訳ではありません。 亀や古代魚を観ると全然動かないでボーっとしてるので、 やはりそれが長生きの秘訣かなと。こんなに動いていたら早く死にそうなのですが、、、 と言いつつ最後まで生き残ってしまいそうな私は 明日からモスクに入り浸ります。何故かと言うと、、、
YAKAZA ENSEMBLE meets SYUNOVEN ART EXHIBITION 2012 ”現画展” 2012年5月27日(日)、28(月) 時間 : 14時~19時 場所 :東京ジャーミイ内 「ユヌス・エムレ トルコ文化センター」 TEL 03-5790-9927 http://www.yunusemrevakfi.com.tr/japan http://www.tokyocamii.org/publicViews/home/lang:jp 151-0065  東京都 渋谷区 大山町 1-19 MAP 5月27日(日)のみ SYUNOVEN ライブペイント:18:00~ 入場無料 先着100名さまにトルコ大使館から 無料でケーキが提供されます。 是非このまたとない機会に、 イスラムの、トルコの文化も感じてください! http://www.tokyocamii.org/Imggalleries/gallery/sid:20/ ということで、 イスラム。。 巷では私がイスラム教に改宗した という噂が全国で廻っている様ですが、 前の宗教も知っていたのでしょうか?? 改宗って、、 ちなみにまだ、改宗していません。 というか変わりません。 自分の宗教はアニミズムです。 それは今後も変わりません。 (よっぽど好みな教祖が現れたら分かりません) シカシ、、 イスラムは本当に興味深い宗教であり、 この現代の、この国においてはとても参考になる事が 多々あるのは間違いないと思っています。 土着信仰としての、
縄文文化はこれまた深く、興味深いものです。 少し脱線しますが、 この ”縄文” というものをテーマにして、 夏にイベント?フェス? 否 ”祭” をやりたいと思っています。 それについてはまた後日報告いたします。 で、話を戻してイスラム。 個人的追憶ですが、 私が最初にイスラム文化に触れたのは 新大久保のイラン人かもしれません。。 彼らが何を売っていて、何を買っていたか覚えていません。 (調書風) 80年代末から90年代中盤までは、 怪しい外国人がワンサカいましたね~ 懐かしい、あのいかがわしい新大久保の景色。 あそこらへんを車で流しならDJ KRUSHの STRICTLY TURNTABLIZEDを 聴くのは良かったな~ (遠い目) そしてバリに旅行に行った時に出会ったジャワのやつらは イスラム教で、街を歩けば流暢な日本語で女の子をナンパし、 怪しい錠剤を飲んで、夜のビーチでテクノで踊ったり、 享楽的に見せかけて(というか完全に享楽的) 部屋には礼拝するときのカーペットがあり、 自分はイスラムだと言っていて、 『そんなに甘いのか、イスラム教。。』 と疑問に思いましたが、それでも彼らの中に一本貫かれている ”宗教” という楔(クサビ)を羨ましくも思いました。 その後、初のアフリカ上陸であったモロッコに 2週間程滞在した時には 毎日流れるアザーンの声に、旅行者として、 異教者として、音楽好きとして、 酔えるものがあり、決して楽では無い状況 (気温46度がざら)で、 それが確実に癒しになっているのは間違いないと思いました。 その数年後2001年の9月11日、 なんだか意味がわからないまま! ブッシュが 『やったのはアフガニスタンのタリバンだから空爆する!』と 言って、皆が『え?そうなの? ていうかアフガニスタンってどこ?タリバンって誰?』 という状況で周りの意見にも有無を言わさず空爆。 アフガニスタンが何処にあるかも、タリバンが何者かも その当時の私は知りませんでしたが、 上記の経験により、イスラム教が悪いわけでも、 イスラムの人達が悪い訳でもなく、 むしろ印象悪いのはイギリスやアメリカの白人達の方が 印象としては悪く、 比べるのは何ですが、どちらかと言ったら ブッシュ達、彼らの方が悪いのは経験的にも直感的にも思い、 皆とアフガン空爆に対して反対でした。 その事件はそれで済まず、あのアホ小泉、失礼、小泉首相が 始めて自衛隊を海外に派遣する事を決めてしまったのは あまりにもショックでした。 なにせその年に生まれたばかりの息子が将来 ブッシュや小泉みたいなクソッタレ、 おっと失礼、 権力者達に利用されて、兵隊にされて殺されるのは 想像するだけで許せない事です。 このバカドモにこのままこの世界は 滅茶苦茶にされてしまうのだろうか。。 という不安と怒りを何処にぶつけたら良いのか、、 それの答えもやはり”祭”でした。 代々木公園でのイベントと広島でのイベントをうち、 全員が消化不良のまま、 2002年に突入しました。 今思うと、 アフガン空爆反対、自衛隊参戦反対 という様なテーマでよくもみんなであんなに熱くなり、 議論しまくったのが不思議とも言えます。 若かったのでしょうか。。 まだ25歳でした。。 (遠い目) ともかくその一件以来、アメリカはもとより、 日本も含め全世界でイスラム=テロリストというレッテルが 貼られたのであります。。 恐ろしいプロパガンダ! まあ、ある意味そのおかげで?イスラムに対して 関心を持った人達も多いと思います。 そう忘れていましたが、中学2年生でガッツリやられた この人達もNation Of Islamでした。
そうです。今思えば、このタイミングで 映画監督スパイクリーが マルコムXという人をリバイバルさせたのは 記憶に深く残っていますし、映画も見ました。 ですが、その当時はあくまでアフリカから 奴隷として連れてこられた黒人達が 心のよりどころとしてイスラム化したという印象で、 イスラムそのものに対してはあまり興味を持つ事はありませんでした。 ここでHIPHOPから観たイスラムの文章で 面白いものがネットにあったので 掲載させて頂きます。 ■ HIP HOPとイスラーム ■ A Tribe Called Quest Q-Tip、Ali Shaheed Muhammad、Phifeの3人に よるグループ。 90年代を代表するグループだが、98年に惜しまれつつ解散。 現在は3人とも、ソロとして活躍中。97年のインタヴューによると、 Phifeは以前ムスリムだったが、 当時すでに脱退。残りの2人はムスリムで、 特にAliは敬虔なムスリム。とても、真面目な人らしい。 また、Q-Tip がメッカで行われる集会に参加する為、 来日が延期されたこともある。 Brand Nubian グランド・プーバ・マックスウェル、ロード・ジャマール、 サダト・X、DJ・アラモの4人組グループ。 デビューアルバムは「One For All」(90年)で、これは名盤。 全員ムスリムで、 ラップにもその思想が伺われる。一時、音楽性の相違から解散していたが、 最近復活!今後の活躍が期待されている。 余談だが、「Allah U Akbar」という、 いかにもなシングル曲あり。興味のある方は是非! Divine Styler NYはブルックリン生まれのラッパー。現在はLAを活動の拠点としている。 99年に発表した3rdアルバム「World Power2」は、前2作に比べ、 彼自身のイスラーム精神に深みが増している。 ファーストシングルは、メッカ巡礼以前の男の心境を綴った 「Before Mecca」で、 そのジャケットにはカーバ神殿があしらわれている。 さらに、本アルバムでは指導者イマームによる神へ の絶対の帰依を唱える アザーン(礼拝の呼びかけ)により幕をあける。 彼いわく、アメリカという国で黒人として生まれ、 公民権運動が新たな闘争を生み出す社 会で育ち、 そんな中で両親でも警察、刑務所でもなく、イスラームだけが彼を満たし、 鎮め<ヒューマニズム>に触れさせてくれた、という。 Black Star Mos DefとTalib Kweliの2人によるユニット。 ユニット名は、1900年代初期の マーカス・カーヴェイ・ムー ブメントからの影響。 タリブ・クウェリは宗教に関して否定的だが、 モス・デフは95年からムスリムに。 彼が、あるインタビューで、酒や煙草、お祈りに関し て聞かれた際、 「ムスリムは毎日5回祈るべきなんだけど、 実際、みんなやってるわけではない。 ただ、できる限りベストを尽くすことが大切なんだ。 我々は、 西洋社会に住んでいるから周りには気を惑わすものが多い。 自分は、パーフェクトから程遠いから努力してるよ。 マリファナは吸わない。しかし、 煙草は止めよ うとしているところなんだ。 煙草は、体に悪いけど中毒性が高いから、止めるのが難しいよ(笑)。」 と言っていたのが興味深い。 ちなみに、モス・デフの弟の ユニットはMedina Green。 モス・デフとタリブ・クウェリは98年に出したアルバム 「Mos Def & Talib Kweli are BlackStar」の為の 限定的なユニットらしいが、その後も、お互い精力的に活動し、 2000年には、2人が中心となり、 NYで警官から41発もの銃弾を浴び死亡したギニア移民、 アマドュ・ディアロ青年 (1999年2月4日のアマドュ・ディアロ事件)を偲んで 「Hip Hop For Respect」というコンピレーションアルバムを制作。 現在、最も注目を浴びるラッパー達である。  Rakim 86年にEric B & Rakimとしてデビュー。 その声や韻の踏み方、深いテーマなどが熱狂的に支持され、 多くのラッパーに影響を与えてい る。現在はソロで活躍中。 マイクの“帝王”。 彼いわく、「85年にムスリムになった。 Rakimという名前は、ムスリムでRaはゴッド、 kimはエジプト の別名だよ。 エジプトは昔、キメットと呼ばれていたんだ。」 ちなみに、長男はタメル・ラキム、長女がディステニー・タニージャ、 次男がジャバール・シャバ ズという名前らしい。 Lakim Shabazz 名前やジャケットの衣装などから、 多分ムスリムであると思われる宗教家ラッパー。 80年代の後半、メッセージ性の強いラップと力強い声で脚光を浴びる。 現在は、マイナーアーティストのプロデュースなどで 細々と活躍中とのこと。  Paris 地元はサンフランシスコ。西海岸では珍しいムスリムラッパー。 セカンドシングル 「Break The Grip Of Shame」(89年)で注目を浴びる。 なお、このジャケットにも描かれている彼のロゴマークには ブラック・パンサーの影響が伺われる。 Tragedy Khadafi NYはクイーンズ出身のラッパー。 またの名を、Intelligent Hoodlum。 代表曲は、ストリートの掟を謳った「Street Life」や、 無くなった同胞たちを称える「Grand Groove」等。 90年に発表したシングル「Black Is Proud」には、 ルイス・ファラカーンの名前も出てくる。 同じく、クイーンズ出身のMobb Deep (モブ・ディープ/ハヴォックとプロディジーの2人組)や Capone & Noreageらとも親交が深い。 Big Daddy Kane 2Pac Snoop Dogg Nas Akon Ice Cube Common Busta Rhymes King Sun Sir Ibu The World Famous Supreme Team Wu-Tang Clan  K.M.D. Knowledge Movement Ex Poor Righteous Teachers Everlast(House Of Pain) 等等 ちなみに 日本だとTwiggy,Big Joeがイスラム教に近づいています。 また ボクシングのカシアス・クレイ (改宗後モハメド・アリと改名して、 日本でアントニオ猪木と異種格闘技を戦ったのは、有名)、 マイク・タイソンの他、NBL では80年代半ばまで花形スターだった ルー・アルシンダーなど、枚挙に暇がない。 マイケルジャクソン同様、音楽界でも珍しくなく、 ジャズのアート・ブレーキーや レゲエの”神様”ジミークリフ、 最近ではラッパーのアイス・キューブの改宗が有名。 「雨に濡れた朝」が有名なキャット・スティーブンス等。
ヒップホップとイスラーム  まず、アフリカ系アメリカ人の歴史研究のなかで10年ほどまえから 盛り上がってきているアフリカ系アメリカ人と イスラームの関係史について紹介したい。 ただし、奴隷制の頃にまで遡ると、かなり長い話になってしまうので、 このブログでは20世紀初頭に生まれたアフリカ系アメリカ人の イスラームセクトがどのように変化していったのかを解説する。 奴隷としてアメリカに連れてこられたアフリカ人が持ち込んだイスラームは、 20世紀に独自の軌跡を描きながらアフリカ系アメリカ人社会に 大きな影響を与えるようになっていった。 20世紀のアフリカ系アメリカ人のイスラーム史は、 大きく3つの時期に分けることができるだろう。 第一期は、20世紀初頭から第二次世界大戦後あたりにかけて、 アフリカ系アメリカ人のイスラームセクトが誕生し、 その基盤を固めた時期である。 第二期は、その中から生まれた ネイション・オブ・イスラーム(NOI)が ブラックパワー運動の隆盛に伴って、 アフリカ系アメリカ人社会への影響力を浸透させた時期である。 そ して、第三期は、1975年のNOIの指導者だった イライジャ・モハメッドの死によって、 NOIがスンナ派(イスラームにおける最大のグループ、 全世界の ムスリムの約90%を占める)の グループと教義をそのまま受け継ぐグループへと 2つに分かれてから現在にいたるまでの時期である。 ヒップホップが誕生したのは、この分類のなかでは第三期にあたり、 NOIがアフリカ系アメリカ人社会である程度の地位を確立しながらも、 ブラックパワー運動が減退していった時期と重なっている。 しかし、NOIの地域に根ざした持続的な活動や ファラカンの黒人社会における求心力によって、 その教義やレトリックは アフリカ系アメリカ人の若者のあいだに浸透していった。 また、1960年代前半にNOIから派生したファイブ・パーセンターズは、 東海岸の都市部の若者の心を捉え、その勢力を伸ばしていった。 一方、NOIの分裂によってアフリカ系アメリカ人のあいだに スンナ派ムスリムが増えたことから、 その第二世代が1990年代後半のヒップホップの表舞台に 現れるようになってきたと考えられる。 20世紀のアフリカ系アメリカ人のイスラーム史の第一期にあたる、 20世紀初頭から第二次世界大戦後あたりまでの時期を 大まかながら見ていきたい。 この時期に生まれたアフリカ系アメリカ人のイスラームセクト ( セクトとはそれぞれの宗教から派生した分派を意味する言葉)は、 中東やアジアに広がるイスラームとは教義や思想において異なる部分が多い。 その背景には、アフリカ系アメリカ人の特殊な歴史的経験がある。 彼らは、宗教を通して、自分たちのアイデンティティーを確立し、 厳しい人種差別に対する答えを求めようとしたのである。 1930年、ファラッド・モハメッドという人物によって、 ネイション・オブ・イスラーム(NOI)が創設された。 NOIという教団が創設される以前、 ノーブル・ドゥルー・アリという人物が始めた ムーア人科学寺院(Moorish Sceience Temple、以下MST)という イスラームセクトがあった。 1913年、アリは、ニュージャージー州ニューアークでカナン人寺院 (the Canaanite Temple)を建て、 空き地や地下、街角などで活動を始めた。 彼の活動は徐々に広まり、十年間で信者が三万人に達し、 東海岸と中西部を中心に寺院が建てられていった。
ノーブル・ドゥルー・アリ MSTによると、アリは16歳のときにジプシーサーカス団の一員となり、 世界中を旅するようになった。 その旅の途中で、彼はエジプトに滞在し、 カルトの司祭から神秘主義について学んだ。 そして、その教えがMSTの経典 Holy Koran of the Moorish Science Temple of America (通称Circle Seven Koran)としてまとめられたとされている。 しかし、Circle Seven Koranには、イスラーム的な要素よりも、 フリーメイソンや仏教および儒教などのの影響が見られる。 また、アリの死ぬ二年前である1927年に Circle Seven Koranが著されたことから、 ブラックナショナリズムを背景に持つ新興宗教の教義、 そして当時の革新的な思想を弁証法的に組み合わせながら、 その教義を完成させたと考えられる。 MSTの教えでは、黒人は、カナン人の中のモアブ人に起源を持ち、 そこからイスラームが自分たちの宗教であると見なした。 さらに、広い起源として黒人たちは アジア人(Asiatics)であると考えた。 アジア人というアイデンティティーによって、 自分たちはマイノリティーではなく マジョリティーであるという意識変革を行おうとしたのである。 こうした試みは、黒人たちのアイデンティティーの 再構築を図るものだった。 ヨーロッパ人の名前を拒絶し、モアブ人の子孫という意識によって ムスリムというアイデンティティーを提示し、 アフリカ系アメリカ人の新たなイスラームの 伝統の礎を築いたという点で、アリは画期的だったといえる。 そして、アリの生み出した思想は、NOIに受け継がれていった。 *ここで述べられているアジア人(Asiatics)という意識は、 後のNOIにも受け継がれていっただけでなく、 多くのラッパーたちにも影響を与えた。 例えば、Juice CrewのBig Daddy KaneのKaneは King Asiatic Nobody Equalsのイニシャルをとったものである。
Big Daddy Kane また、アフリカ系アメリカ人のイスラーム史という観点から、 アリは大きな展開を見せたといえる。 MSTの教義は多数派イスラームのものと全く異なるが、 イスラームを黒人の宗教として主張した背景には、 彼らの奴隷制時代からの歴史があるといえる。 イスラームの影響力が強く残っていた南部の沿岸付近で育ったアリ自身が、 何らかの形でイスラームやそれに関する概念に親しみがあった可能性は 十分に考えられる。 現代にいたるアメリカにおける多くのイスラーム的宗教表現の礎を築いた ノーブル・ドゥルー・アリの努力は、18、9世紀の アフリカ系ムスリムの遺産からの架け橋となったと評価できる。 20世紀初期に興った宗教や社会運動は、 貧困労働者層の黒人たちが都市部に移動し、 自分たちのアイデンティティーを求めたことから始まった。 こうした流れの根底にあった思想が、ブラックナショナリズムであり、 そこから色彩豊かな様々な運動が生まれていったのである。 特に、ノーブル・ドゥルー・アリが、 奴隷制時代のイスラームの伝統から生み出した新たな流れは、 黒人の宗教史に大きな影響を与えた。 しかし、アフリカ系アメリカ人のイスラーム史に 新たな流れを生み出したアリは、 1929年に謎の死を遂げることとなった。 そして、彼の生まれ変わりを名乗り出たのが、 ネイション・オブ・イスラーム(NOI)の創始者である W.D.ファラッド・モハメッドであった。 ファラッドは、1930年にNOIの原型となる The Lost-Found Nation of Islamをデトロイトに創設し、 行商を通じて地元の黒人たちをNOIに改宗させていった。 ファラッドは、黒人たちは本来聖なる都市メッカの民であると語り、 彼らの先祖が信仰していた宗教はイスラームであると説いた。 ファラッドの独特の風貌とそれまで聞いたことがないような話によって、 NOIの信者は徐々に増えていった。
ファラッド・モハメッド (実際は、パキスタン系の父とイギリス系の母の間に オーストラリアで生まれ、アメリカに密入国してきた) 活動が広まるにつれて、 ファラッドは白人とキリスト教に対する批判を始めた。 活動を始めた頃、信奉者が慣れ親しんでいた 唯一の聖典が聖書だったために、 ファラッドは聖書を通して教えを説いていた。 彼は導きの拠り所としての聖書を否定しなかったが、 キリスト教の信仰による問題の解決や既存の聖書解釈を批判し、 黒人の置かれた状況に対応するような 新たな解釈の必要性を強調したのである。 そして、クルアーンが何よりも重要であると説いた。 しかし、1934年、ファラッドが突如失踪する事件が起き、 イライジャ・モハメッド(Elijah Muhammad)が彼の後継者として、 NOIの指導者となった。
イライジャ・モハメッド イライジャ・モハメッドは、 父と祖父がバプテスト派の牧師であり、聖書に精通していた。 そうしたことから教団内で急速に頭角を現し、 最高教師の地位に就いた。 そして、ファラッドの失踪について、彼は神の化身であり、 再臨の準備のために姿を隠したと説明した。 さらに、自分自身は、神の再臨のときまで人々を導く預言者であるとした。 これが、他のムスリムから批判を受けることになる ファラッドの神格化の始まりである。 しかし、ファラッド自身は自分をマフディー(救世主)だと 語ったことはあるが、 神の化身であるとしたことはなかった。 イライジャは、自分の預言者としての地位を確立し、 後継者としての正当性を主張するために、 ファラッドを「神」、「アッラー」としたのである。 ファラッドを失った教団内部では、 イライジャに対する不満などから分裂が起きた。 身の危険を感じたイライジャはデトロイトを離れ、 七年に及ぶ地下生活を送った。 1942年、イライジャはシカゴにNOIの本部を移し、 教勢を立て直そうとしたが、 活動はなかなか軌道に乗らなかった。 また、兵役拒否と市民を煽動した罪によって、 イライジャはFBIに逮捕された。 終戦後、釈放されたイライジャは教団の指導者として、 NOIの教義を築いていった。 そして、マルコムXの活躍などによって、 教団は1950年代に急激に成長していった。
マルコムX 1950年代後半からネイション・オブ・イスラーム (以下NOI)が急激な成長を見せた背景には、 マルコムXのカリスマとNOIの独特の教義があったことが挙げられる。
マルコムX 1925年5月19日、マルコムはバプテスト派の牧師 アール・リトルの息子として ネブラスカ州のオマハで生まれた。 マーカス・ガーヴィーの運動に参加していたマルコムの父は、 白人至上主義者に目をつけられ、リンチによって殺された。 その結果、彼の家庭は崩壊し、 白人家庭に引き取られ養子としての暮らすようになった。 中学を卒業した後、歳の離れた姉を頼ってボストンに移り、 そしてハーレムで売春の斡旋やドラッグの売買、 窃盗など堕落した生活を送るようになった。 あるときの窃盗で警察に逮捕されたが、 1948年に獄中でNOIに改宗した。 出所直後から、マルコムは精力的に教団の活動に参加し、 その発展におおいに貢献した。 1952年の仮釈放以来、マルコムは中西部と東海岸を中心に 教団の普及・強化に努めた。 そして、1954年5月に、以降の活動の中心となったハーレムの 第七寺院の主任教師に任命され、 一年で第七寺院の規模はどんどん大きくなっていった。 1960年代になると、マルコムの活動はさらに活発化し、 メディアや大学での講演会に頻繁に招かれるようになっていった。 また、教団のスポークスマンとして、 大きな集会などではカリスマ性を発揮し、 多くの信者に影響を与えるまでの地位に昇りつめた。 しかし、教団内部からマルコムに対する不穏な動きが現れてきた。 それが形となって現れたのが、ケネディー大統領暗殺に関する マルコムの発言に対する謹慎処分だった。 この事件よりも前に、教団の最高指導者である イライジャ・モハメッドが 数人の元秘書との間に生まれた子供を認知するように 訴えられた事件が報じられていた。 マルコムは、そのうちの三人の元秘書と会って、 それが事実だということを確認した。 こうした彼の一連の行動がイライジャの不信を招き、 マルコムとイライジャの間に亀裂が生じてしまった。 そして、イライジャからケネディー暗殺について公言することを 禁止されていたにも関わらず、 メディアに「この暗殺は起こるべくして起こった」 という発言をおこなった。 その結果、マルコムはイライジャから 90日の謹慎を課せられた。 これによって、教団上層部のマルコムに対する姿勢が 表面化していった。 攻撃を怖れたマルコムは、 1964年3月に教団からの正式な脱退を表明した。 教団離脱後のマルコムは、3月に ムスリム・モスク・インコーポレイテッド、 6月にアフロアメリカン統一機構 (Organization for Afro-American Unity、以下OAAU) を立ち上げた。 前者は、イスラームに基づく宗教的組織で、 後者はアフリカ系アメリカ人の 政治的意識を高めることを目的とした組織である。 そして、講演会などで知り合ったスンナ派 (世界最大のイスラームの教派)の ムスリムたちとの接触から、 伝統的なイスラームについての知識を求めるようになった。 また、マルコムが教団離脱後も敬意を抱いていた イライジャの息子ウォレスも、 マルコムのスンナ派への改宗に賛意を示した。
ウォレス・モハメッド そして、4月のスンナ派への改宗直後に行ったメッカへの巡礼が、 マルコムの大きな転換の発端となった。 メッカで、白人を含む様々な人種や民族のムスリムたちと、 兄弟として礼拝や寝食を共にしたマルコムは、 それまでのNOIの教えと伝統的なイスラームの違いに気づいた。 NOIがそれまで悪魔としてきた「白人」は、イスラームによって、 その「白人」性が取り除かれると考えるようになった。 また、メッカ巡礼後、 続けてナイジェリア、ガーナ、セネガルなど 西アフリカを中心に 旅をしたことで、マルコムの思想の 汎アフリカ主義的な側面が強化された。 マルコムは国際的な経験によって多くのことを吸収し、 それまで以上にスケールの大きな視野を得ることができたのである。 帰国後、彼は、独立後も様々な問題に直面する アフリカの国々と連帯することで、 アメリカにおけるアフリカ系の人々の人権が 踏みにじられている状況を 打破することを目指した。 そして、白人たちには、白人の組織を作って、 黒人の組織と共闘することを呼びかけた。 それまでの白人との対決姿勢から一転した マルコムの考えが見受けられる。 一方で、度重なる脅迫や実際に起きた家の爆破によって、 マルコムは、自分の身に迫る危険を感じていた。 そして遂に、1965年2月21日、 マンハッタンのオーデュボンホールで行われていた OAAUの会合でのスピーチの途中で、 16発の弾丸を受けて暗殺された。 マルコムは、黒人解放運動や汎アフリカ的政治思想に 影響を与えただけではなかった。 黒人とイスラームの歴史においても、 彼の軌跡は大きな意義を持っている。 NOI離脱後もマルコムと親交の深かったウォレス・モハメッドは、 イライジャ死後の教団の指導者となり、 スンナ派へと転換していった。 スンナ派への学びらからイライジャへの教義に反発し、 教団を破門されていたウォレスは、 マルコムのスンナ派への転向を支持していた。 そして、NOIの信者をはじめ、 多くの黒人に人気のあったマルコムが スンナ派に入信したことは、彼らに大きな衝撃を与えた。 マルコムの尽力によってNOIは大きな教団となったが、 彼の才能やカリスマ性に対する上層部の嫉妬によって、 彼自身が教団から追い出される結果となってしまった。 しかし、教団を離脱したことで、 マルコムは、スンナ派イスラームに出会い、 メッカ巡礼でその本質に触れることとなった。 マルコムは、アメリカ社会の差別を批判してこなかった 白人のキリスト教に対抗し、 真の人種を超えた融和を可能にできるのは イスラームであると確信したのである。 そして、白人とお互いの組織を通して協力関係を築きながら、 アメリカの変革を目指すようになったのである。 マルコムの改宗による新たなイスラームの流れは、 ウォレス・モハメッドに受け継がれていった。 20世紀におけるアフリカ系アメリカ人の イスラーム史の第二期に、 NOIがアフリカ系アメリカ人の大衆に 大きな影響力を持つようになったもう一つの要因として、 その教義の独自性が挙げられる。 アフリカ系アメリカ人の歴史的な経験に基づいて 自分たちのアイデンティティーを求めた結果、 聖書とブラックナショナリズムを基盤とする 教義が創り上げられた。 その独自性は、教義に示される歴史観に顕著に現れている。 地上に現れた最初の民族は、「シャバズの民」と呼ばれた 肌の黒い人々であった。 彼らはナイル川の流れる谷に居住し、後にメッカを築き上げた。 創世記15:13-14、使徒言行録7:6-7にあるように、 アブラハムがアジアの黒い民の父となったとしている。 そして、アメリカの黒人は、 黒い民の祖となったシャバズの民の直系で、 この黒い民に含まれるのは、全ての非白人たちである。 また、白人については、ヤクーブ(Yakub)という 黒人科学者によって 白人を創り上げられた白い悪魔 (grafted devil)だと説明している。 ヤクーブは異なる人類を創り出すことで、 人々を支配しようと計画していた。 危険分子と見なされヤクーブは、5999人の信奉者と共に パトモス島に流されてしまった。 メッカから追放されたヤクーブは、 パトモス島で六百年の時間をかけて その島の人々との配合を繰り返した。 この配合により様々な色の人種が生まれ、 最終的に嘘や欲などの人間としての弱みが 結集されて創り出されたのが白人である。 これが、白人は悪魔であるというNOIの教義の原点である。 白人はパトモス島から聖なる土地であるアジアに移り、 黒人の間に争いをもたらした。 これを知った聖なる土地の統治者は、 白人をヨーロッパへと追放した。 これが、およそ六千年前の出来事である。 ヨーロッパに移った白人は、 洞穴に住みながら獣のように暮らすようになった。 神はモーセを使わせ、 白人に文明をもたらそうとしたが不可能であった。 ところで、白人たち到来によって、 争いの絶えなくなった黒人を見た神は、 白人に世界を六千年統治させることにした。 神は、黒人の霊的資質白人が正義によって 世界を支配できるかを試そうとしたのである。 しかし、白人には正義によって世界を統治する能力は無く、 非白人を支配しながら、より悪に満ちた世界を築いた。 そして、六千年の猶予期間は終わり、 黒人を救うためにこの世に神と預言者が現れた。 それがNOIの創始者のファラッドと後継者のイライジャである。 彼らは、悪魔である白人の支配から黒い民を救済するために シャバズの民の直系の子孫である アフリカ系アメリカ人のもとにやってきた。 アフリカ系アメリカ人は、アジアの黒い民を救済し、 悪魔である白人の文明を破壊するために、 神によって選ばれたからである。 NOIでは、創世記15:12-21によって、黒人たちが神と アブラハムの契約を満たす人々であるとしている。 彼らの救済の最初の段階として、 預言者であるイライジャ・モハメッドは、 アメリカの黒人に彼らの歴史、宗教、 神について教えるためにやってきた。 こうした自分たちに関する正しい知識を獲得することが 天国にある状態であり、 白人たちによって与えられた間違った知識を 身につけたままの状態が 地獄であると考えられた。 こうした現世的な天国・地獄の理論は、 NOIの教義の特徴である。 つまり、NOIの教義では、 自分たち自身、歴史、神、国家について 無知だった状態から抜け出し、 本来のアイデンティティーを取り戻すことが 神の国につながる救済なのである。 NOIの終末論も、聖書、特に黙示録に拠った 独自の解釈によって展開されている。 最後の審判では、全ての人類が滅ぼされるわけではなく、 アメリカの崩壊によって悪魔である白人たちと彼らの宗教である キリスト教の破壊が起きるのである。 そして、その後に神が世を支配する至福千年が訪れるのである。 こうした独自の教義は、ブラックパワー運動が隆盛を見せるなかで、 多くのアフリカ系アメリカ人を惹き付けることとなった。 一方で、1960年代中頃から、NOIから派生した ファイブ・パーセンターズという グループがニューヨークの青年を中心に 急激に勢力を強めていくようになった。 ファイブ・パーセンターズは、 正式名称をthe Nation of Gods and Earthsという。 このグループは、マルコム・Xが主任教師をしていた ハーレムにある第七寺院の 主任教師を務めていたクラレンス13Xによって始められた。
クラレンス13X クラレンスは、 NOIの創始者であるファラッドの母が白人であることから、 彼は神の化身とは成りえないと言い出したことによって 教団から破門された。 NOIからの破門後、1964年に The Nation of Gods and Earthsを創設した。 The Nation of Gods and Earthsという名前は、 クラレンス13XがNOIの神論を展開させて、 黒人男性は神の化身であると唱えたことに由来している。 そして、Earthsというのは黒人女性を指している。女性は、 地球のようにこの世に生命を生み出すことができるからである。 ファイブ・パーセンターズの教義は、 NOIの教義体系を基盤としており、 ファイブ・パーセンターズという名称もNOIの教義を確立した イライジャ・モハメッドの思想に由来するものである。 イライジャによれば、世界の人口の5%は 貧しくも高潔な教師(poor righteous teachers)であり、 この世の貧しき者の生き血を吸う(blood suckers of the poor) 10%の者たちの嘘を信じず、 この世に生ける真の神はアジアの黒い男であることを知っている。 そして、富を有し、貧しき者の生き血を吸い、 彼らを奴隷とする10%は、 嘘によって大衆を支配し、 貧しくも高潔な教師たちに敵対させるのである。 この方法によって、10%は預言者を殺し、 共同体を崩壊させてきたのである。 ファイブ・パーセンターズという名前は、 このグループに属す人々が貧しくも 高潔な教師を名乗ったことに由来している。 また、ファイブ・パーセンターズは、 自分たちを他のムスリムたちとは違うものであるとしている。 先述の様に、ファイブ・パーセンターズを名乗る黒人男性は、 自分たちを神の化身であると考えている。 ムスリムとは「神に服従する者」という意味であり、 ファイブ・パーセンターズは 自分自身を神の化身と見なしているために、 ムスリムとはなり得ないと考えるのである。 そして、彼らにとって、 ムスリムとはイスラームを宗教として信奉する者であり、 ファイブ・パーセンターズたちは科学(science)や 数学(mathematics)を用いて イスラームの真理を探究する者なのである。 したがって、彼らは自らをしばしば 科学者(scientist)と呼ぶことがある。 そのために、彼らはsupreme mathematicsと supreme alphabetと呼ばれるものを使って、 自らのまわりにあるものに意味付けを行なうことを常としている。 彼らのレトリックの中に、droppin’ scienceというものがあるが、 これはある事柄について語るときにその原因や背景を Supreme Mathematicsや Supreme Alphabetを使って証明する行為を指している。 Supreme Mathematicsとは、ギリシャなどで発展した 数字学(numerology)の影響を受けたものである。 0から9の数字にはそれぞれ意味があり (例えば、1は知識、2は知恵、3は理解など)、 それらの数字を通して宇宙の真理を解明しようとするものである。 Supreme Alphabetも同じように、 それぞれのアルファベットには意味が当てられている。 例えば、Allahという言葉は、arm、leg、leg、arm、headの 頭文字からできていていると考えている。 このことによって、 黒人男性が神であることを証明しようとするのである。 多数派のムスリムがアラブ文字を使うのに対して、 彼らがアルファベットを使って真理を探究しようとしているところに アメリカで生まれたイスラームのセクトとしての特徴が見られる。 また、NOIのようにイスラーム以外の宗教や思想を 取り入れているところから、 そうした傾向がアフリカ系アメリカ人の イスラームセクトに受け継がれている伝統ともいえるだろう。 また、ファイブ・パーセンターズにおいては、 NOIのような改名行為が見られる。 NOIにおいては、白人の奴隷主によって奪われた 本当の名字が未知なるものであることから、Xを用いていた。 あるいは、イライジャ・モハメッドに特別にお願いをすると、 アラビア語の名字をもらえたのである。 ファイブ・パーセンターズにおいては、 どのような過程を経て改名が行なわれるかは不明だが、 自分たちは神(Allah)の化身であることから、AllahやLord、 あるいはGodを自分の名前の一部に使う例が見られる。 その他にも、 SupremeやDivineといった言葉が使われることもある。 例えば、クラレンス13Xは、 Almighty God AllahやFather Allahと名乗っていた。 このように、同じ人物でも、複数の名前を有することも稀ではない。 クラレンス13Xは、1969年にハーレムで射殺されてしまった。 しかし、創始者の死後もファイブ・パーセンターズの数やその教義は、 東海岸の都市部を中心に増えていった。 その背景には、「each one, teach one」という ファイブ・パーセンターズのレトリックにあるように、 自分よりも若い青年たちにその教えを継承させていったことが挙げられる。 こうして、NOIの教義よりもさらに複雑な、独特の方法論を持った 新たなイスラームセクトがアフリカ系アメリカ人社会、 特に都市部の青年たちのあいだに広まっていったのである。 こうしたファイブ・パーセンターズの教義や思想は、 1980年代の後期から1990年代にかけて現れた ヒップホップアーティストたちに大きな影響を与えている。 例えば、ファイブ・パーセンターズが自分たちを貧しくも高潔な教師 (Poor Righteous Teachers)と呼んだが、 その呼び方は1990年にHoly Intellectというアルバムで デビューしたグループの名前になっている。
Poor Righteous TeachersのHoly Intellectのアルバムカバー 他にも、Marley MarlのDroppin’ Scienceや Big Daddy KaneのShow & Proveという曲がある。 これらは、ほんの一例にすぎないが、 ファイブ・パーセンターズの思想から 大きな影響を受けたアーティストが多くいることは確かである。 アフリカ系アメリカ人の歴史的経験や ブラックナショナリズムを基に形成された 独自の教義によって信者を獲得してきた ネイション・オブ・イスラーム(NOI)。 しかし、1975年に指導者であったイライジャ・モハメッドの死によって、 その跡を継いだ息子のウォレスは、NOIの教義を一切排除して 多数派であるスンナ派へと教団を移行させていった。 しかし、それに対抗して、現在のNOIの指導者である ルイス・ファラカンが教団の再建に乗り出した。 1975年以降のアフリカ系アメリカ人の イスラームの変化の経緯を詳しく見ていくことにする。 1975年、NOIの教義を確立し、 強大となった教団を指導してきた イライジャ・モハメッドがこの世を去った。
イライジャ・モハメッド イライジャの後を継いだ息子である ウォレス・モハメッドは、NOIに急激な変化をもたらした。 ウォレス・モハメッド イスラームについて深く研鑽を積んできたウォレスは、 イライジャの打ち立てた教義に疑問を投げかけてきた。 マルコムXがNOIを離脱したときに、 彼がスンナ派の道に進むことを後押ししたのも このウォレスであった。 ウォレスは、こうした行為によって 数回にわたって教団から破門されてきた。 しかし、イライジャの死後数年前にNOIに復帰したウォレスは、 彼が主任教師を務めていた寺院で スンナ派の教義を教えることが許されていた。 そして、イライジャの死をきっかけに、 後継者に任命されたウォレスは NOIの教義をスンナ派へと移行させていったのである。 この変化の背景には、ブラックパワー運動の減退と NOI信者の社会的階層の上昇という二つの要因が挙げられる。 教団が深く結びついていたブラックパワー運動は、 1970年代半ばには、当局からの圧力などによって衰退傾向にあった。 ブラックパワー運動の衰退は、 教団に新たな方向性の決断を迫るものであった。 また、厳格な規律によって生活をしていたNOIの信徒たちは、 その勤勉さからアファーマティブアクション (差別撤廃措置)によって恩恵を受け、 社会的成功をおさめたことが推測できる。 ブラックパンサーなどの急進的な組織に対する政府の弾圧から、 NOIの信者たちは、 反アメリカ的な教義によって 社会的地位を失うことを怖れたという側面も否定できない。 いずれにしても、イライジャ・モハメッドの死は、 時代の流れの変化に沿った教義へ転換するいい機会となった。 スンナ派への移行を図ったウォレスは、教団の名前を World Community of al-Islam in the Westへと改称し、 自身もワリス・ディーン・モハメッドへと改名した。 さらに、ワリスは、アメリカ社会で イスラームを普及させるために様々な活動を展開した。 そのために、まず教団から反アメリカ的な要素を一切排除した。 例えば、Fruit of Islamという 教団が抱える自警団を解散させることで、 政府のNOIに対する警戒心を無くそうとした。 さらに、アメリカの独立記念日である 7月4日を愛国者の日として定め、 反アメリカ的姿勢からの転換を図った。 また、アメリカに対する立場の変化だけでなく、 イスラーム世界との関係を考慮した教団の変革も行っていった。 まず、自身が教団の最高指導者の地位から退き、 教団の運営はアメリカ国内の6地域の代表者たちに任せ、 教団の民主化を目指した。 さらに、教団の形態もイスラーム世界に対応させるために、 最終的には教団自体を解体させ、各マスジッド (イスラームにおける寺院の名前、 モスクの名のほうが知られているかもしれない) を独立させていった。 その結果、アフリカ系アメリカ人の スンナ派ムスリムの数が増加し、 現在その人口は47万人いると考えられる。 ウォレスの尽力によって、アフリカ系アメリカ人の イスラーム史が新たな転換を迎えたのである。 しかし、ウォレスの方針ではアフリカ系アメリカ人の直面する 問題の解決には繋がらないと考えた者がいた。 それが、現在のNOIの指導者であるルイス・ファラカンである。
ルイス・ファラカン
彼は、1977年に教団を離脱後 ネイション・オブ・イスラームの再建に乗り出した。 ファラカンはイライジャの確立した教義を取り戻しただけでなく、 それまでNOIが批判してきた黒人教会との連隊を図った。 その結果、急激な信者数の増加は無かったものの、 黒人社会におけるNOIの支持基盤を拡大することに成功した。 また、1980年代に現れたドラッグや 黒人男性収監率の増加といった問題に NOIが積極的に関わる姿勢を見せたことも、 同様にNOIの支持基盤の維持・拡大に貢献した。 こうした黒人社会におけるNOIの影響力の拡大を示したのが、 1995年に行なわれた「百万人の行進(Million Man March)」である。 ちなみに、この行進について取り扱ったのが、 スパイク・リー監督のGet On The Busである。
Get On The Bus ファラカンの呼びかけによって開催されたこのイベントの目的は、 アフリカ系アメリカ人の多様性を社会に示すと共に、 彼らが直面する社会問題に 取り組むための連帯を強めることであった。 このイベントに、様々なブラックナショナリズムの組織や 背景の異なる黒人男性が参加したことから、 ルイス・ファラカンがブラックナショナリズムの 中心的な存在となったことが伺える。 また、ファラカンは、ヒップホップアーティストたちとの 連携を図っていることでも有名である。 1995年にCommonのI Used to Love H.E.R.を巡って Ice Cubeとの間に争いが起きたときや、 2003年に50 CentとThe Gameが争ったときに、 ファラカンはこれらのアーティストを一同に呼び寄せて、 その仲裁を行なった。 また、選挙期間には、ラッセル・シモンズらと協力しながら、 アフリカ系アメリカ人の若者の 投票をよびかける運動を行なってきた。
ラッセル・シモンズ このように、1975年のイライジャ・モハメッドの死によって、 アフリカ系アメリカ人のイスラームは、スンナ派へ移行したグループと それまでのNOIの教義を受け継ぐグループへと大きく二つに分かれていった。 その一方で、第一期と第二期に発生したMSTやファイブ・パーセンターズも、 アフリカ系アメリカ人社会、特に都市部において ある程度の存在感を維持してきている。 20世紀初頭に現れたイスラームセクトは、 黒人社会における影響力を増していったが、 ブラックパワー運動の減退とともに スンナ派へ移行する動きが生まれた。 その結果、アフリカ系アメリカ人のイスラームは、 ネイション・オブ・イスラームと スンナ派の大きな二つの流れへと分かれていった。 こうしたアフリカ系アメリカ人のイスラームとその歴史の軌跡は、 ヒップホップにも影響を与えてきた。 ヒップホップは、1970年代中頃に ニューヨーク市のブロンクスで生まれた アフリカ系アメリカ人の文化である。 ブロックパーティーと呼ばれる空き地に サウンドシステムを組み立てて、 DJが音楽をかけていたところから ヒップホップは始まったのである。 その中でも、ラップと呼ばれるものは、 DJのかける音楽にあわせてマイクで喋り、 踊っている人たちを盛り上げようとしたことから始まった。 したがって、1970年代の終わり頃から 流通しだしたラップの作品の内容は、 パーティーをテーマとしたものだった。 しかし、1980年には Brother D with Collective Effortというグループが、 How We Gonna Make the Black Nation Rise という曲を発表している。 ディスコの名曲であるシェリル・リンのGot to Be Realという アップテンポなメロディーを使用しながらも、 歌詞の内容はアメリカを批判し、 アフリカ系アメリカ人社会の結束の重要性を訴えるものとなっている。 この曲は、最初のいわゆる コンシャス・ラップの曲といえるのではないだろうか。 Brother Dは、 ”Devil is taking off his disguise. They are killing us in the streets. (悪魔がその仮面を脱ぎ捨て、 俺たちをストリートで殺そうとしている)” と歌っている。 こうした表現には、白人は悪魔であるという NOIの教義の影響があると考えられる。 また、マーカス・ガーヴィーの名前と彼の有名な “Up! You Mighty Race! (立ち上がれ!強大な人種よ!)” という言葉が、歌詞に盛り込まれている。 この曲はマイナーレーベルから発表された曲であったために、 市場での流通量も少なく、 メディアでも取り上げられることはほとんどなかった。 しかし、1980年というラップのレコードが 流通し出した最初の時期から、 このようなブラックナショナリズムの思想が 随所に散りばめられた曲が存在したことは特筆に値する。 こうした黒人社会の現状を訴える曲は、 1982年に発表された Grand Master Flash & the Furious FiveのThe Message という曲が初めて大きなヒットとなった。 そして、 このような政治的なスタイルを前面に押し出したアーティストが 1980年代中頃から現れるようになったのである。
Grand Master Flash & the Furious Five その中でも有名なのが、KRS-OneとPublic Enemyである。 KRS-OneはD-NiceというラッパーとScott La RockというDJと一緒に、 Boogie Down Productionというグループを結成した。
Boogie Down ProductionのScott La Rock(左)とKRS-One(右) 彼らの1987年デビューアルバム Criminal Mindedに含まれる曲の多くは、 暴力に関するものであった。 さらに、同年にはDJのScott La Rockが 襲撃され亡くなってしまう事件が起きた。 その結果、KRS-Oneは、大きな方向転換を行なっていった。
Criminal Mindedのアルバムカバー 翌1988年に発表されたアルバムは、 By All Means Necessary (全ての手段を用いても) というタイトルがつけられた。 このタイトルは、マルコムXの有名な言葉である 「By Any Mean Necessary (いかなる手段を用いても)」をもじったものである。 そのアルバムのカバーは襲撃に備えてライフルを手に 窓から外を覗くマルコムXを写した 有名な写真を真似たKRS-Oneの姿が映し出されている。
ライフルを片手に窓から外を覗くマルコムX
By All Means Necessaryのアルバムカバー 以降のKRS-Oneは、自らteacha (teacherをアフリカ系アメリカ人の 発音の通りに綴ったもの)を称し、 独自の哲学や宗教観について語るようになっていった。 KRS-Oneは、マルコムXが思想界に革命を起こしたように、 ヒップホップの世界で 同じようなことをしようと意識したのではないだろうか。 KRS-Oneと同じ頃にデビューした Public Enemy(以下PE)は、 アメリカの権力と戦うといった政治的な内容の歌詞を 前面に押し出したアーティストとして 最も有名なヒップホップのグループと言えるだろう。 そうした姿勢は、 軍服をよく着ている彼らの服装にもよく表れている。
Public Enemy しかし、そうした政治的な姿勢の背景にあったのは、 ネイション・オブ・イスラーム(NOI)からの影響であった。 特に、リーダーであるチャック・Dは、 その歌詞からNOIから大きな影響を受けていることが読み取れる。 例えば、2枚目のアルバム It Takes a Nation of Millions to Hold Us Backに収録されている Party for Your Right to Fightでは、 NOIが神の預言者と考えている イライジャ・モハメッドの名前をはじめ、 grafted devil (創造された悪魔、つまり白人を指すNOIの言葉) やOriginal Black Asiatic Man (最初の黒いアジアの男、つまりこの世に現れた最初の人たちで アフリカ系アメリカ人の直系の子孫とNOIが 考えた人たちである黒人を指すNOIの言 葉) が出てくる。
It Takes a Nation of Millions to Hold Us Backのアルバムカバー さらに、同アルバム収録のBring the Noiseという曲では、 冒頭にマルコムXのコーヒーのたとえ話から”too black”、 “too strong”という声がサンプリングされている。 さらに、 “A brother like me said ‘Well, Farrakhan’s a prophet and I think you ought listen to what he can say’ (俺みたいなやつはこう言う。 「ファラカンは預言者だから、 彼の言うことは聞いておくべきだ」と。)” とチャックDが歌っている。 また、1989年に公開されたスパイク・リー監督による Do the Right Thingの 主題歌にもなったFight the Powerという曲の ミュージックビデオでは、 ブルックリンの大通りに設置されたステージの上に マルコムXの大きな写真が飾られている。
映画Do The Right Thing このように、1980年代の終わり頃から NOI教義やマルコムXを意識したアーティストが、 多く現れるようになってきた。 特に、マルコムXが行なってきたような アメリカに対する批判に見られる表現や論調が、 多くのヒップホップアーティストに受け継がれている。 しかし、PEのようなNOIに影響を受けたような政治的な歌詞は、 徐々に少なくなっていった。 その代わりに、1990年代に入ると ファイブ・パーセンターズの影響を受けたアーティストたちが現れ、 黄金期と呼ばれたヒップホップの時代を築いた。 上記はウェブからの転用ですが、 アフリカに行き拉致をして、アメリカ等強制連行し、 その後奴隷として扱うなどというまさしく非人道的行為を 100年以上行った白人達は恨まれるのが当たり前で、 アイデンティティを失った黒人達は そのイスラムという思想によって、 自らを再生したのです。 アッラーの下ではあらゆる人種、職業、年齢、性別は 差別されません。 この様な考えは他の宗教にもありますが、 偶像化されたキリストや仏陀の様に 割と姿形が出来てしまうと、 やはり優劣が出来てしまいます。 そこらへんがイスラムでは
偶像崇拝 を禁じているので、 地域性、お国柄、容姿などが問われないところが 世界中にシェアされ絵いる理由の一つでしょう。 近年アフリカ等もイスラム化が進んでいます。 それにまつわる思想的な事はまた次回に。 ところで話題は変わりますが、 岩国。
よく知っている場所なのですが、 飛行場なんて必要ないくらい小さな町だと思うのですが、 新幹線も止まります。 何故ここまで優遇?されるのでしょう。。 先日あまりメディアにも出ず、 ネット上でだけ流布した 『岩国のコンビナートで化学工場が爆発。 数名死亡、数十名負傷。 付近の住民の民家の窓等割れる等被害はあったものの、 約70トンの劣化ウランは大丈夫でした。』 『っていうか!劣化ウランあるの?』 とだれでも突っ込みを入れたくなる報道が気になっていたので、 急遽入った音のメンテの仕事を周南徳山で終わらせ 久々に行ってきました岩国!
付近を車で流しましたが、凄い匂い。。 でもガイガーカウンター的には0.1以内で、 放射線量的には低く、どういう事なんだろうと、、 地域調査。 工場の横の海で釣りをしてる30代くらいのアンちゃんに話しかけると 『あー凄い音で居酒屋で飲んでいてビックリしましたよ。 え?そんなヤバいんですか? NHKも報道してない?あー僕普段からNHK興味なくてみてないっす。』 と言ってる側で、フグが釣れ、 『それどうするの?』 と聞くと 『さばけないからリリースっすね』 って食える魚なら持って帰って食うんだ! 化学工場の横の海の魚を! 無関心というか無頓着と言うか、、 無感覚というか、、、、、 よく言えばズボラと言うか。。。 ともかくこんな人ばかりだとしたら このエリア終わってるなと思い、 もう少しまともな神経な人がいないのかと思い、 そこらを廻るも 工場の廻りは飲み屋とパチンコ屋ばかり。。。 これじゃああなるのか。。 などと嘆いていると 某チェーン系オーガニックショップがあり、 そこなら玄米とか食べてるし、まともな意見が聞けるかなと思い、 40−50代の女性スタッフに訊ねると あまり分からないと。。 え~ こんな爆発だぞー!
こんなの家の近くであったら 気にならないのはオカシイと思うんですけど。。。 一応ネットによると。。 ■三井化学大竹工場に眠る劣化ウラン この情報は、先月4月22日、 山口県岩国市の三井化学岩国大竹工場の酸化塔で 発生した爆発事故について述べています。 そして、この事故に関するメディア報道の中にある 以下の文言について詳細に触れています。 「この工場には、放射性物質である「劣化ウラン」が入ったドラム缶を およそ3,400本保管しているということだが、 異常はなく、被害もなかったという。」 報道ソース(FNN) http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00221770.html 地元自治体も「劣化ウラン」は寝耳に水だったようで、 管轄の文部科学省に安全確認を要請した模様です。 「同社は3月28日と爆発があった4月22日以降の 保管倉庫と周辺の放射線量が毎時0.22~9.31マイクロシーベルトを示し、 「事故前後で数値は変わっていない」と説明したという。」 報道ソース(中国新聞) http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201205020009.html ■原子力発電所の2次産業 三井化学大竹工場は原子力発電所の 使用済み燃料から発生する 「核燃料廃棄物(アイソトープ)」 を扱っているとのことです。 ここで今一度、原子力発電所が実際に行っている業務を 優先順位の高い順から箇条書きにしてみます(裏ビジネス含む)。 1.プルトニウム生産 − 兵器用 2.トリチウム生産 − 水素爆弾、中性子爆弾、核融合実験炉の材料 3.アイソトープ生産 − 医療用、実験資料、蛍光塗料、LED照明、兵器用 あれ?発電は?と思われた方も多いと思いますが、 実際には、発電はこれらの工業生産過程の余剰熱を使って 水蒸気タービンを回しているだけのことであり、 原子力発電所の存在意義とはまさに、 放射性物質の生産にあるとも言えます。 その意味では「使用済み核燃料」とは、 立派な工業生産物であると言えましょう。 しかも、上記のリストから分るように、 その多くが軍事目的(兵器生産)であり、 一般には民生用と思われているアイソトープに関しても、 その使用目的のほとん どが軍事用であることは、 もはやこの業界での常識となっています。 ■劣化ウラン弾は兵器用アイソトープの主力生産物 兵器用アイソトープから生まれるのが劣化ウラン弾です。 劣化ウラン弾には大きく分けて二種類有ります。 1.アイソトープ弾:住民や家畜を放射能で殺す(ウラン238は含まない) 2.炸裂弾:国土、環境に放射能を撒き散らし焦土とする(ウラン238を含む) 劣化ウランはその硬質な物性のため、 弾頭部分など兵器の構造材に再利用されていると喧伝されていますが、 現実には、放射能による生物殺戮兵器であることは 明らかです。 私も国際軍事評論家B氏から、 劣化ウラン弾に関する米陸軍軍医による過去の研究論文を お借りして読んだことがありますが、 その中に、”人体 (使用する兵士も含む)に非常に有害な為、 使用は好ましくない”と、 劣化ウラン弾の配備を問題視する記述があったのを覚えています。 これらの爆弾は湾岸戦争やアフガニスタン戦争で米軍に使用され、 その放射能が偏西風に乗って、戦地だけでなく、 日本を含む世界中が汚染されてしまい、 その 結果、自然背景放射の100万倍も汚染されたことは、 これまで劣化ウラン問題を調査されている方なら とっくにご存知のことかと思います。 ■三井化学大竹工場は劣化ウラン弾の秘密工場だった 以上までは前置きです。この情報源はここから恐ろしい 日本の暗部について語り始めます。それは、三井化学大竹工場内に、 1)アイソトープ爆弾の弾頭工場、 2)炸裂弾の小弾頭(炸裂弾に詰め込まれている中身)工場 の二種類の工場が存在し、 ここで造られた爆弾弾頭は全て、 近くにある米軍の岩国基地に供給されているというのです。
しかも、米軍が保有しているの劣化ウラン弾を製造しているのは、 グアム島の米軍基地内と、 岩国の三井化学大竹工場の二箇所だけであり、 アメリカ本土には存在していない。 つまり、 三井化学大竹工場こそは、 劣化ウラン弾の2大生産拠点の1つだったと言うものです。 ■岩国基地の地下に眠る核兵器 以上に加えて、岩国基地の地下に保管されている 核兵器群についても詳細なレポートが届いています。 それを以下に記述します。 (1)原子爆弾完成品 72本 (2m×50cm) —長崎級の30倍程度の威力 (2)アイソトープ弾頭 580個 (40cm×40cmの円柱) (3)炸裂弾頭 330個 (40cm×30cmの卵形) —弾頭当りの炸裂小弾数150個 この内、(2)(3)の劣化ウラン弾頭については、 どちらも三井化学大竹工場内で生産されたものであるとのことです。 また、原子爆弾についてはアメリカ本土から 輸送されてきた物であるとのことです。 ■大竹工場に今も眠る恐怖の放射性物質 非核三原則とは言っても、 123便事件に絡む日本の核兵器生産、 自衛隊の核兵器配備の可能性について、 これまで何度も言及してきました。 で すから、米軍基地内の兵器庫や寄航する軍機・艦船に 核兵器が搭載されているなどというのは、 むしろ常識であり今更驚くことではありません。当然の話です。 問題となるのは、 日本の民間工場が外国軍のためにせっせと (準)核兵器を製造しているという点です。 その秘密工場について、情報からその存在位置を推定してみました。 海に面しているということなのですが、 航空写真からでは三井化学大竹工場内に 適当な工場群が見つかりません。 情報を文字通り解釈した場合に考 えられるのは、 三井化学大竹工場の東側に隣接する新日本石油の精製工場内となります。 これまでの日航機事件の調査で、 隣接し合う民間工場間で、 人や資材を 融通し合っていると思われるケースを見てきた経験から、 三井化学の出張工場が新日石工場内にあっても 特におかしいとは思えません。 しかしここでは、疑問符 付きながら、 大竹工場敷地内における秘密工場の推定位置(工場群の北端)と、 そこに保存されている 放射性廃棄物(ドラム缶)の数量を 図2及びキャプション に示します(*1)。
図2:秘密工場の推定位置と放射性廃棄物の貯蔵庫 (東側海沿いにある新日本石油精製工場の敷地内かもしれない) A:炸裂弾工場: 500kg放射性廃棄物缶が約600本 B:アイソトープ弾工場: 400kg放射性廃棄物缶が約300本 C:核廃棄物貯蔵庫: 同様の放射性廃棄物缶が約3700本 放射性廃棄物缶に納められている放射性物質の構成は ・サマリウム(Sm) ・プロメチウム(Pm) ・テクチニウム(Tc) — 以上で6割 — ・ストロンチウム(Sr) ・バリウム(Ba) ・テルル(Te) ・ジルコニウム(Zr) ・他(全50種程度) となります。セシウム(Cs)に関しては3%前後であり、 これらの存在比率は福島原発事故によって 放出された放射能性核種の比率とほぼ一緒であると言いま す。 サマリウム147の半減期は1.06×10の11乗年(約1000億年)ですから、 宇宙の開闢から現在までの時間(約137億年)を以ってしても、 放射線量が殆ど変化ないという大変恐ろしい物質です。 蛇足ですが、 これらが福島の放出核種の中に同割合で含まれているのなら、 今現在、自然環境の中でどのように存在しているのでしょうか? 環境中セシウムの測定は一応の目安にはなりますが、 サマリウムやプロメチウムなど、 セシウムよりはるかに放出量が多い 危険な核種についての情報があまりに少なすぎます。 放射性廃棄物: 山口県などの石灰岩地帯は 自然放射線値が高いと言われていたが、本当なのか? これら放射性廃棄物の影響ではないと言えるのか? 今回の情報を 基に再調査する必要があるだろう。 また、政府が進めている放射能汚染瓦礫の全国拡散の真の理由とは、 秘密裏に作られたプルトニウム保管庫 (参照:「認めたくない福島の憂うべき現状3」)や、 http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/34cba5c6a4999046b6cb01eb8acab95d 全国の放射性物質取り扱い事業所内に存在する 不法な核廃棄物の存在を隠蔽するためなのではないだろうか。 http://blog.goo.ne.jp/adoi からの転用でした。 怖いですね~ ともかくそのお店でお客さんとして来ていた おばあさんが 『あの事故の事?うちは窓ガラスがほとんど割れて、 すぐ三井の人が来て、修理を手配してくれて、 次の日からそこの人達が一軒一軒お詫びと事情を話しに廻ったけど、 大した説明にはなっていなかったわ。』 と貴重な情報。 しかもそのおばあさん曰く、、 彼女がそのエリアに嫁いでからすでに知っているだけで、 4回あのくらいの事が起こってると!!!!! マジすか! ということはやはりこの様な事故があっても、 その当時の報道では今回の3/11の様に メディアぐるみで隠蔽が行われ、 大した調査も、報道も出来なかったという事です! ですよね~ 隠したいですよね。。 三井が軍需産業のトップの一つであり、 長崎へ落とされたプロトニウム爆弾を作ったデュポンと 一緒にやってる工場の存在なんて! まさかですが、実際に観て来てしまいました!
ともかく山口aka長州藩は 伊達に国家の中枢を牛耳っている訳ではありません! その中心的な場所だとされる 田布施 そこも少し廻ってきましたが、 とっても良い農村でした! しかし、、 こんなのがあったり、、
石城山というところなど なんだか怪しいVIBES漂うところも。。。 同行してくれた周南BOYSありがとうございます! そして予定を変更してまでも行きたかった 祝島!!!!
なんだか石ばっかり撮っていますが、、 とても!良いところでした。 ここの状況について詳しくは 上関原発問題 http://www.iwaishima.jp/home/discuss/discuss.htm http://shimabito.net/ http://www.hourinoshima.com/%E7%A5%9D%E5%B3%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ http://www.iwai100.jp/ http://www.eco-reso.jp/feature/love_checkenergy/20110617_5079.php ともかく島民の方にいろいろとお話を聞きましたが、 ある意味ここの島は恵まれていたというかラッキーです。
こんな事をされた2月21日の後 あの3.11が起こり、 今は流石に金に目がくらんだ人達も 強引なことができなくなっている状況です。 しかし、 奴らはまだ諦めていない様です。 再稼働という言葉が出てくるだけでも 頭がおかしいとしか言えませんが、、、、 ちなみに 上関原発予定地内にある 西日本最大級の縄文遺跡とされる田ノ浦遺跡 をなんと文科省が許可し、 埋め立ててしまいました。 なんという愚業。 アンビリーバブルです。 ともかく今まで行った島の中で 一番POSITIVEなヴァイヴが漂う祝島に幸あれ! また是非行きたい! なんだったら住んでみたい!
ということで、 こんな可愛い子供たちには少しでも良い未来を築けたら良いですね!
Legui Legui

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