NO.107 高橋竹山のことば

Jan 16, 2014


先週末のもMOMENTOS楽しかったです。

龍石君にも吉祥寺、
東京ローカルを体験してもらえて感無量。
もちろんDJも素晴らしかった。
Kenji Ikegamiも改めて新年この歪んだ世界、
日本に生きる意味、
かつてこの地で培われた感情を
呼び覚ましてくれた。
SunDrumRumも
スペシャルゲストのSaxのKids君を交えて
壮絶な民衆の力強さ、
逞しさを呼び覚ますものがあった。
ヴィッソン君のカレーからは
時間を費やした者にしか
醸し出せないスパイス
“洗練”を感じた。
毎回スペースシップホストとして
皆をもてなすAbeeからは
地球的おおらかさを感じた。

来てくれた皆仲間の仲間達すべての人から、
まだ失われない人間への関心=愛を感じた。
ありがとう。
また引き続き宜しくお願いしますm(._.)m

先日のONENESS MEETINGの再生トークでも

話題になりましたが、
やはりその人、その土地に”愛”がないと
再生させることは出来ないと思います。こんな狂った偽善者が



http://www.asyura2.com/0601/war82/msg/635.html



まかり通る世の中、
特にこの日本という国家ですが、、、

高橋竹山
の言葉が沁みます。
from SYUNOVEN THANX!

眼の見えないものには、
眼の見える人よりも
見えるものがあるんだ。

弟子と師匠というものの間柄というものは、
商売一代の飯の種をわけてもらうのだから、
命の親、生活の親だ、
考えようによっては生みの親より大切だ。
生みの親は子供をうんで育てるが、
それから女房もらって
世の中に闘っていくだけの商売を
わけてもらうんだから、
それを考えれば
師匠というものはだいじなもんだ。


 
才能のある人は、同じに習っても
たいへんうまく師匠から習った型を
生かしてやる。
才能のない人は師匠から型を習っても、
型を忘れてしまって手前勝手にやる。
こうした人はうんと努力しているのに
何年やっても上達しない。
どうでも努力すればいいというものではない。
 

私にいわせれば唄だって、三味線だって、
音楽だ、ひとつの教育だ、
人の気持があらわれる鏡だんだ。
面白くない時は芸もうまくねえ。
客に気持をつたえる術だもの。
自分が面白くないときは、
客だってやっぱりなんとなく
ちがうものを感じるんだから。

だから芸というものは面倒だ。
いい加減ごまかしではやれない。
きく人はどうでもやればいいと思って
きいてるかもしれないけど、
やる本人だって人間だし。
商売だから、なにがあっても
仕方なくやっているというんでは
本当の芸はできない。
ぜったいだめだ。
それでもやらなければならないから
芸する人はつらい。
お客さんはそんなことわからないんだから。

民謡というものは百姓のうただ。
なにもかざりもない。
百姓が働くような熱の入った唄を
下手でもいいからやればいい。
それしかできないのは仕方ない。
ただ涙の入った、気持のある、
なるほどというところをやれ、
とおらは若い人にいっている

。上の本の編者である佐藤貞樹氏の
あとがきも素晴らしかったので割愛。

いい聴き手がいなければ
いい演奏はできないし、
演奏しなければ
芸も発展するはずがない、
というごく当たり前のことなのだ。


土着性とか土臭さとかいわれるが、
それはけっして
泥くささということではないだろう。
反対に土着のものは
必ず洗練されているものである。

それはこの地方のものでたとえていうならば、
縄文土器の美しさ、こぎん刺しや津軽塗、
南部芸能のえんぶりのコスチュームの
美しさなどをあげるだけで十分であろう。

それは何千年、何百年というながい間、
同じものをくりかえしくりかえしつくりあげる中で
洗練されていく美しさなのである。

洗練されているから土着するのであり、
泥くさいだけでは継承されないのは
明らかなことだ。

どんな芸でも
聴き手の要求にこたえることができなければ
発展をとめるしかないのだから。

いつの時代でも、
同じものを飽かずにくりかえしくりかえし鑑賞し、
その耳をゆたかにしていった聴き手がいた。

それにこたええたものだけが
継承され土着のものとなったのである。





間違いありません。
精進します。

 

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