NO.109 モサドとその配下にある日本の政治家達

Jan 27, 2014

Mossad

イスラエル諜報特務庁
ヘブライ語: המוסד למודיעין ולתפקידים מיוחדים‎,
HaMossad leModiʿin uleTafkidim Meyuḥadim,
ハ-モサッド・レ-モディイン・ウ-レ-タフキディム・メユハディム)

イスラエル情報機関
モサド」と通称される。
国外での諜報情報の収集に従事し、政治性行為を実施し、
テロ対策を行う。
1937年に各地で迫害されていたユダヤ人を
非合法でパレスチナに入国させ、
入植させる互助組織として発足。
イスラエル建国後は、
対外情報部として組み込まれる。

1960年の元ナチス・ドイツの幹部・アイヒマンの逮捕で、
一躍その実力を世界に示した。

国内での防諜などは軍秘密情報部アマンが担当。

世界最強のスパイ組織モサド。


イスラエルの国旗

ユダヤ人の国イスラエルは、
戦後1948年5月に中東に誕生した


1948年に独立した時、
イスラエルには情報機関が5つあった。

第1は「シン・ベト」
(別名「シャバク」)で、
主に国内保安を司る機関で
アメリカのFBIに匹敵する。

第2は「アリア・ベト」
当時アラブの国々から
新生イスラエルに逃げてくるユダヤ人は多く、
彼らの脱出を援助したのがこの機関である。

第3は外務省の情報部。

第4は警察の情報部。

第5が「シャイ」と呼ばれる
対外諜報を専門とする機関だった。

●1951年に情報界の再編成によって
「シャイ」は解体され、
2つの機関に分かれた。
その一つが軍諜報の「アマン」で、
もう1つが「モサド」だった。

「モサド」とは
ヘブライ語の「諜報及び特別工作」の略である。
主に国外での情報収集を任務としている。
各情報機関は、首相も出席する
「インテリジェンス・コミュニティー」
と呼ばれる定例会議で情報交換を行なっている。
議長はモサドの長官が務める。

モサドの構成員は
約2000人、
その他の情報機関員も合計すると
約1万5000人と推定されている。
(イスラエルの人口比からすれば
相当に情報機関員が多い)。

●モサドの初代長官は
ルーヴェン・シロアッフという
ポーランド生まれのユダヤ人だったが、
1年足らずで 辞任。後任はイサー・ハレル。
実質的にモサドを
世界最強の諜報機関といわれるまでに仕立て上げ、
今日でも現役のモサド要員から
「ミスター・モサド」とあがめられている男である。

●CIAやMI6とは異なり、
モサドでは誰でも簡単にスパイになれるわけではない。
モサドのリクルーターと呼ばれる採用担当者は、
これだという人物を見つけたら、
数年かけて対象の身辺を 調査する。
社交性、思想、マナーに加え、
友人の評価、運動神経、性癖までもが
徹底的に調べ上げられる。
これらのチェックをクリアすると
正式に勧誘し仲間に 迎え入れるという。

●モサドの工作員が世界各国で行なっている
日常的な任務の中では、
アイヒマン捕獲作戦のような
華々しい作戦は少数の例外に過ぎない。
任務の大半を占めるの は、
イスラエルに敵対する勢力の動向に関する
情報の収集・分析と、
イスラエルに敵対する行動を起こしている
敵側の人間を直接的・間接的な手段で
「消す」ことである。

前者の場合、各国に派遣された工作員(カッツァ)は、
現地で信頼できる協力者(サヤン)を見つけて
仲間に引き入れながら、
成果が表に出ることのない地道な作業を通じて、
本国イスラエルの安全保障を陰で支えている。
後者の場合、暗殺工作員(キドン)と
サヤンはイスラエルのユダヤ人を
攻撃対象とみなす勢力に気づかれることなく近づき、
消音器の付いた拳銃やナイフ、
あるいは素手で、1人また1人と
「イスラエルの敵」の息の根を止めている。

●これらに加え、政治的理由により
イスラエルと国交のない国に派遣されて、
当該国との間で非公式な外交関係を水面下で
構築・維持することも、
モサド工作員の重要な役割である。
この件に関して、
メイヤー・アミット(第3代モサド長官)は
こう述べている。

「モサドの活動は主に3つの分野に分けられる。
第1に
極秘裏の情報収集と工作、

第2に
スペシャル・オペレーション(特別工作)。
アイヒマン誘拐は
このスペシャル・オペレーションの部類に入る。

第3の活動分野は
イスラエルと外交関係を持つことを
拒否している国々へ浸透して、
極秘の外交関係を樹立すること。
多くの国が今日イスラエルと外交関係を持っていないから、
この仕事は特に重要視されている。
表面的には敵対関係にある
アラブ諸国のいくつかもこの方法で
我々と外交関係を維持し ている。
海の表面が荒れている時は下に潜って
静かな水の中で泳ぐのが一番という考えを
モサドはうまく実行しているのだ。
モサドがよく“地下の外務省”
といわれる所以(ゆえん)はここにある。」

●また彼は、モサド・エージェントとして
必要な要素についてこう述べている。

「モサド・エージェントとして
必要な要素はいろいろとあるが、
まず自分のやっていることに『信念』を持てる人間だろう。
これがない人間は羅針盤のない船に等しい。
モサド・エージェントの仕事はきれいごとばかりではない。
それどころか時には
非道きわまりない仕事もやらねばならないことがある。
心の 中ではものすごい抵抗を感じるものだ。
そんな時、支えとなるのが
自分のやっていることに対する『信念』だ。
それも単なる口先だけではなく、
どのような拷問 やプレッシャーにも耐えられるほど
強固な『信念』でなくてはならない。
この要素を持った人間は多いようで中々いないものだ。
同じように重要な要素として考えられるのは、
人一倍頭が切れることだろう。
どのような固い信念や愛国心を持っていても、
頭が悪い人間は 使いものにならない。
チェスでたとえれば少なくとも
十手先まで読めるぐらいの頭脳がなければ
エージェントとなる資格はない。
頭が良いということは機転が利くということにつながる。
機転が利けば、
どんな状態に追い込まれても瞬間的に判断を下し、
ベストな方法で対処することが出来る。」


●1990年9月、
ビクター・オストロフスキー
彼の著書
『モサド情報員の告白』
(TBSブリタニカ)
モサドの内部事情を暴露した。

●このオストロフスキーによれば、
モサドは偽造旅券や偽造紙幣の作成用に
工場と化学研究所を有しており、
各国の旅券や紙幣の紙質を分析 しては複製を試み、
またそこに押される入国管理用の
スタンプまでも偽造しているという。
これら偽造用の資料は警察の協力によって集められたもので、
全てコ ンピュータに記憶させてあるという。

●この本の中で、オストロフスキーは
モサドの実態についてこう語っている。

「世界中にはサヤン(協力者)がたくさんいる。
サヤンとは、イスラエルの国民ではないものの、
世界の各地に住んでいる純然たるユダヤ人 で、
モサドの協力者を意味する。
ロンドンだけでも、活動している人が約2000名いるし、
リストに載っている人が別に5000名いる。
彼らは様々な役割を 果たしている。
例えば、レンタル店をやっているカーサヤンは、
モサドの一員には一般の書式に
必要事項を書きこまなくても
車を借りられるようにしてや る。
アパートサヤンは、
疑惑を呼ぶことなく部屋を探し出してやるし、
バンク(銀行)サヤンは、
真夜中に金の必要が生じた際にも用意してくれる。
ドクターサ ヤンは、
警察に報告しないで銃創を治療してくれる。
〈中略〉 彼らはどんな依頼にも快く協力するが、
実費以外は受け取らない。」

「モサドのメイン・コンピュータは、
150万以上の人名を記憶している。
モサドがPLOや敵対関係にある者として入力した人物たちは、
担当部署の名前にちなんで、“paha”と呼ばれている。

この部は独自のコンピュータ・プログラムを持っているが、
メイン・コンピュータの記憶装置を利用してもいる。」

「モサドには超秘密の特別部署が存在しており、
たんにアル(AL)と呼ばれている。
ヘブライ語で、上とか頂点を意味する。
この機関は深く秘密に包まれてお り、
主体であるモサドからひどくかけ離れているので、
モサドの大半の職員はそこが何をしているのかさえ知らないし、
コンピュータに保管されている
そのファ イルに接近することもできない。
彼らの活動の全部とはいわぬまでも大半は、
アメリカの国境内で行なわれている。 〈中略〉
モサドは依然としてアルの存在を認めていない。
モサドの内部では、
我々はアメリカ国内では活動していないのだと言われている。
しかしモサドの大半の人間が、
彼らのやっていることを正確には知らないまでも、
アルが存在していることは知っている。」

占領地に目を光らせる国内治安局
「シン・ベト」

●シン・ベトは別名「シャバク」とも呼ばれている。
正式名称は「シェルト・ビタホン・クラリ」で、
「シン・ベト」という呼び名は
この「シェルト・ビ タホン」の部分だけを略したもので
正確ではない。しかし、
「シン・ベト」という呼び名のほうが
一般的によく知られているので、
ここでは「シン・ベト」と呼 ぶことにする。

●シン・ベトは1948年に創設され、
主に占領地におけるパレスチナ人の監視や、
国内の破壊活動の防止、
外国スパイの摘発を任務としている。
初期のシン・ ベトは社会と隔絶した小組織で、
無名の存在だった。マスコミ検閲により、
機関の名も活動ぶりも報じられることはなかった。
機関員の名を報じるのは違法行為 だった。

●1967年の第三次中東戦争(6日戦争)で
イスラエルがアラブに対して完全な勝利を収めると、
イスラエルの全諜報機関の 長官からなる
「ヴァラシュ委員会」は、
シン・ベトの国内公安任務を
新占領地にも広げることを決定した。
これによって、シン・ベトは西岸地区とガザ地区の全域に、
情報提供者や秘密スパイ網を張り巡らすことに成功した。
密告者たちは、しばしばシン・ベトに
ゲリラの奇襲計画を事前通報した。
シン・ベト工作員たちは、内部情報を手掛かりに、
破壊活動の密議をこらす現場を急襲したり、
テロ攻撃に向かうパレスチナ人のゲリラ部隊を待ち伏せて
捕まえることに成功した。

●パレスチナ住民が建設許可を申請すると、
占領地の軍政当局は、
まず地元のシン・ベト工作員に照会した。
アラブ商人がガザ地区の柑橘類や
西岸地区のオリー ブ油を輸出しようとしても、
シン・ベトの同意がなければ許可証は得られなかった。
パレスチナ人たちの日々の、
いや、分刻みの行動を掌握する任務を、
シン・ ベトは事業家が事務をこなすようにやってのけた。
ゲリラ組織の内部情報を提供する密告者は、
その代わりに安全を保証され、特別報酬を受け取った。
更にシン・ベトは、イスラエル国内の
一般刑務所内のシン・ベト直轄の収容棟とは別に、
占領地に独自の「拘束セン ター」を作った。
パレスチナ人たちが逮捕されると、
まっすぐに特別収容棟か、
この拘束センターに送られた。
そしてそこで、テロ容疑のパレスチナ人たちは
手荒な尋問を受けた。

●1967年12月までに、
シン・ベトは驚くべき成果を収めた。
PLO細胞のほとんどは破壊され、
西岸地区のPLO本部は ヨルダンへと撤退した。
約200人のパレスチナ・ゲリラが、
イスラエル軍やシン・ベトとの戦闘で殺され、
1000人以上が逮捕された。シン・ベトの暗躍 で、
パレスチナ人たちは新占領地において
大衆蜂起を組織する道を阻まれたのである。
こうしてシン・ベトは、1967年を境にして
抑圧勢力に変貌し、
占領地とその住民を統治する中心的な役割を果たすこ とになった。
占領者の治安機関となり、
自信を強めると同時に、尊大にもなった。
広範な地域を支配するため、
以前の緻密な完璧主義は、
拙速主義のやっつけ仕 事に変わってしまったようである。

イスラエル軍諜報機関
「アマン」

●「アマン」は「モサド」と同じ1951年に創設された。
軍参謀本部に属し、参謀長や国防相に情報を報告している。
華やかな勲功が新聞に紹介されるモサドや
シン・ベトに比べて目立たぬ存在だが、
国家防衛の任務では、
「アマン」こそ最大かつ最重要の諜報機関である。

アマンはエレクトロニクスや無線による
情報収集だけに専念するわけではなく、
アメリカの
「国家安全保障局(NSA)」
のような役割を果たしている。
NSAはCIAの陰で活動をし続け、
アメリカの諜報分野の幾多の成果を生む基盤となっている。

●アマンは軍隊組織と同様、
非常によく組織されている。
「コレクション」と「プロダクション」の
2つの部を主力とした6つの部で構成されている。

コレクション部は、国境の外側でエージェントや
インフォーマントを操作する
「ヒューミント(ヒューマン・インテリ ジェンス)」や、
無線傍受したり電話回線に盗聴装置を仕掛けて
“地上会話”を傍受、録音する
「シギント(シグナルズ・インテリジェンス)」
を受け持ってい る。
6日戦争で大勝利したのも、
エジプトのナセル大統領と
ヨルダンのフセイン国王の電話のやりとりなど、
アラブの戦争計画の協議を速やかに傍受し、
その詳 細をアマン機関から
イスラエルの将軍たちに効果的に伝達したことが大きかった。

●プロダクション部は最大の陣容を備え、
アマンの7000人の男女職員のうち
3000人がこの部に属している。
集められた情報を受け取り、
分析するのが、 その任務である。
アマンは、エレクトロニクス戦では空軍と緊密に協力しており、
これは専門家の間では
「エリント(エレクトロニクス・インテリジェンス)」
と呼ばれている。
レーダーとか、それより更に高度なシグナルを送って
敵軍を妨害したり、
欺いたりするのである。

●アマンは諸外国のイスラエル大使館に武官も任命する。
報道に対する軍検閲も担当する。
軍内部からの機密漏洩を防ぐ任務にも当たっている。

イスラエル軍特殊部隊の中の特殊部隊
「サエレト・マトカル」

●1968年12月26日、
アテネ空港でイスラエル旅客機が
PFLPの襲撃を受けた際、
イスラエル首相エシュコールは報復攻撃のため、
ゲリラ発進地 であるベイルートに兵を送ることを決定。
2日後の28日夜、イスラエル特殊部隊はヘリコプターで
ベイルート南郊の空港に到着した。
彼らはレバノン部隊との 銃撃戦を展開しつつ、
レバノンのミドルイースト航空や
他のアラブの航空会社の無人の旅客機13機を炎上させた。
世界中がイスラエルの大胆な行動に驚き、
イスラエルが国家テロに及んだと非難した。
しかし、欧州勢はイスラエルを非難する陰で、
その勇敢さを称賛した。
この「ベイルート襲撃事件」で、
イスラエル軍がアラブの心臓部を
驚くべき正確さで攻撃できると実証したためである。

●ラファエル・エイタン准将の指揮する
空挺部隊が遂行したこの作戦は、
イスラエル特殊部隊の名声を高めた。
これら精鋭三小隊は「サエレト」の名で知られて いた。
ヘブライ語で「偵察」の意味だが、
彼らは偵察よりも遥かに積極的な任務を遂行する
スペシャリストで、ゲリラ戦や夜襲や、
降下作戦や、各種兵器を使うための
厳しい訓練を受けていた。

●イスラエル軍のほとんどの部門が、
独自の「サエレト」を持っていた。
空挺隊、歩兵隊、海軍、戦車部隊も
それぞれのサエレトを持っていた。
そして、こうしたサエレトの上に
「サエレト・マトカル」(別名:269部隊)
と呼ばれる特別のサエレトがあった。
この特別なサエレト隊 は、
参謀総長と軍諜報機関「アマン」長官の命令の下で、
危険かつ困難な任務を遂行した。
この最高コマンド隊は軍諜報の作戦を遂行するため、
平和時に国境を 越えて
アラブ世界に侵入する作戦が多かった。

●「サエレト・マトカル」は
1960年代に創設されたもので、
この部隊を創設したのは「アマン」の高官、
アブラハム・アルナン将軍だった。
彼はイスラエル 軍から最も勇敢で
頭脳明晰な兵士を引き抜き、
遠隔の地で孤立しながら戦うための徹底した訓練を行なった。
部隊は通常、3人か4人の小チームで編成され、
密かに国境を越えて偵察基地を設置したり、
アラブ諸国の電話線に盗聴装置を仕掛けたり、
暗殺したり、人物や特定の目標を拉致する
といった任務を遂行する。

●砲撃戦でイスラエル兵数百人、
エジプト兵数千人が死んだ1969~70年の
「消耗戦争」の際、
「サエレト・マトカル」は
スエズ対岸のエジプト領内にある
ソ連製レーダー基地を急襲し、
大戦果を上げた。
この新設のハイテク・レーダーを単に爆破するのさえ
困難な任務だが、
イスラ エル軍の作戦はそんな単純なものではなかった。
彼らは1969年12月26日の夜、
ヘリコプター2機を使って7トンもあるレーダー装置を、回
転アンテナご と空中につり上げ、
スエズ運河を越えてイスラエル側に運んでしまったのである!
そして、このソ連製レーダーは、
厳重に警備されたイスラエル軍基地に運ばれ、
「アマン」の分析官らが詳細に調査。
こ のレーダーから得た収穫は、
CIAやアメリカ空軍諜報部と分かち合ったという。
ちなみに、越境作戦にヘリコプターを使用し始めたのは、
この「サエレト・マ トカル」が世界最初と言われている。

イスラエルの死の商人を
サポートする機関
「シバト」

●標準的な軍の装備で、
ソ連のカラシニコフをモデルにしたイスラエル製の
「ガリル銃」は、世界で1、2位を争うといわれる武器であるが、
海外への売 り込みはいつも、政治の壁にはさまれた。
なにしろアラブ諸国はイスラエルに
「のけもの国家」の烙印を押そうと
躍起になっていたからである。
それゆえ、イスラエルはやむなく、
利益の上がる市場を積極的に探り、
南アフリカやイラン、ラテン・アメリカの
独裁政権といった評判の芳しくない国々に
武器を売ることになった。

●イスラエルの武器輸出は、
国家利益にとって死活的な課題である。
外貨獲得の源であり、
海外に影響を広げる有効な手段というだけでなく、
もっと根本的なビ ジネスの論理がある。
イスラエルが他国の好意にのみ依存するのを避けるには、
自前の軍需産業を持つ必要がある。
そのためには、量産して採算をとらなければ ならない。
イスラエルの軍需産業は、
銃、弾丸、戦闘服に始まり、
戦車、魚雷艇などのより高度な武器も、
自国が使用する以上の数を製造しなければならない。
海外の売り上げは、研究開発費に充てられ、
軍需産業を維持する経費も
海外からの収益で帳尻を合わせるのである。

●となれば、諜報組織が武器販売の促進に携わり、
この重大な利益の擁護に関与するのは
少しも不思議ではない。
“非公式の大使”として
海外任務にあるモサド の機関員たちや、
密かにテロ対策顧問として
活動しているシン・ベト機関員たちが、
イスラエル製兵器が優秀だという評判を広める。
銃などの武器は、抱き合わ せ取引に組み込まれる。
つまり、イスラエル人からの有益な助言が、
実戦で実力を証明済の武器とセットで提供されるのである。

●これは比較的に新しい現象で、
1973年戦争の後から始まったものである。
それ以前は「シバト」がもっと直接的な形で武器輸出を担当していた。
「シバ ト」は、
ヘブライ語の「安全保証支援」の略称で、
テルアビブの国防省内の小さな部署だった。
交渉は慎重に進められ、
イスラエルとの通称関係を隠したがる国々に売り込む時には、
武器の出所は決して明らかにしないと「シバト」は確約した。

●「シバト」が設立されたのは、
1960年代半ばのことで、
きっかけは当時のイスラエルと
南アフリカとの間で初めて行なわれた
武器の秘密取引を世界のマスコミが暴露し、
イスラエルが世間からごうごうたる非難を浴びてしまったことによる。
ホロコーストを生き延びた人々の
避難所として世界的な支持を集めるユダヤ人国家が、
南アフリカの悪名高き人種差別政権と関わっていたのを知られ、
イ スラエルは大いに当惑した。
そこで国防省は、新たに海外販売を担当する機関
「シバト」を設けたのである。
その目的は、
将来、同様の取引がないように防止す るのではなく、
それらを隠蔽することだった。

●「シバト」の下で、
南アフリカとの秘密の軍事提携は進んだ。
イスラエルの軍事顧問は、南アフリカ国防軍に対し、
アフリカ民族会議(ANC)や
南西アフリ カ人民機構(SWAPO)の
ゲリラとの戦い方について、
自分らがパレスチナ人テロと戦う手法に沿って指導した。
イスラエルは南アフリカに、
銃や大型の武器 システムを売却したが、
さらに好意的にイスラエル製武器を
南アフリカ国内で製造するライセンスも与えた。
ちなみに、「シバト」は純然たる諜報活動には従事しておらず、
シバト長官は、イスラエルの諜報機関長官たちの
「ヴァラシュ委員会」にも出席していな かった。
通常は退役した軍の上級将校が長官を務め、
その勧告はイスラエルの諜報組織が進める
“陰の外交”に大きな影響力をもっていた。

●「シバト」は時折、仲買人を使った。
売買にイスラエルが関与しているのを隠蔽するためだった。
一般的に、政府間の武器取引はお互いの国家機関によって
巧 みに監督されており、機密を要した。
例えば、イスラエル空軍がイスラム教国である
インドネシアに旧型のスカイホーク機を売却した際は、
当然、アメリカの了 解を得て行なわれたが、
インドネシアはユダヤ国家のイスラエルと
表向きには敵対関係にあったから、
絶対に秘密を守るよう要求したのだった。

●第4次中東戦争以前には、
イスラエルの武器輸出は
年商約5000万ドルだった。
その後、
イスラエルの軍需産業は国産兵器の増産に努め、
武器輸出は第二段 階へと拡大した。
この頃にはイスラエル人の仲買人たちが主役を演じるようになり、
各国に強く働きかけ、
「シバト」の下で急成長する
イスラエル軍産複合体と 契約を結ばせた。
15年のうちに、
イスラエルの武器輸出は飛躍的に伸びた。
年商1億ドルを超えた。

●1970年代から80年代にかけて、
イスラエルには大きな変化が起きていた。
イスラエルには、他国に買う気にならせた上で
自国政府に売却を説得する力を持つ、
新しい階層がうまれていた。
モサドやシン・ベトの退役者や、退役上級将校たちだった。
これら諜報機関や軍部の退役者は
「OB会」とでも呼べそうな ネットワークを作り、
世界中のどの貴族階級にも劣らず自己中心的で、
独自の構成員を擁護していた。

●当時、イラクと交戦状態にあったイランや、
中南米の軍事政権などは、
必要なものを何でもイスラエルが提供してくれると聞き、
信じ込んでしまった。
イスラ エルは南アフリカ政府に兵器体系をそっくり売却し、
現地の会社にイスラエルが設計した戦闘機
「クフィル」を「チータ」という別名で
製造することを認可し た。
魚雷艇「レシェフ」や「ガブリエル」も、
新しい名をつけてライセンスが与えられた。
更にイスラエルは中南米の独裁政権の秘密警察に
コンピュータを売り付けて、大いに金をもうけた。
「シバト」機関から輸出許可を得た“海賊業者”たち は、
シン・ベトがテロ対策のために開発した
最新の情報分類システムやゲリラの身元を確認するソフト、
電子盗聴装置までも売り込んでいたのだ。
中南米の独裁政権の中でも、
特にグアテマラ、エルサルバドル、
そしてサンディニスタ政権以前のニカラグアの3国は、
アメリカが人権侵害に対する制裁として軍事援助を削減すると、
懸命にイスラエルからの武器輸入に頼ろうとした。

●アメリカとイスラエルのマスコミは、
アメリカが密かにイスラエル製品のために金を払い、
議会が設けた枠を超えて
中南米の反共勢力を支援しているようだ と、
盛んに書き立てた。
反サンディニスタを掲げる
ニカラグアのコントラ・ゲリラのリーダーたちの何人かは、
イスラエルから武器を受け取った事実を認めた。
イスラエルがPLOから奪った武器も含まれていたという。
更にイスラエル諜報機関のOBたちがグアテマラ、
ホンジュラス、エルサルバドルで
軍隊や秘密警察隊を訓練している事実も明るみに出た。
また、コロンビアで特殊契約を結んで
大もうけしていることが暴露され、
イスラエルを大いに困惑させた。

●スキャンダルの主役は
ヤイル・クレイン中佐だった。
彼はイスラエルで対テロ空挺部隊の
指揮官を務めた予備役将校で、
退役後に民間の安全保障会社
「スペア ヘッド」を開業した。
ところが1989年9月、
「メデジン」と呼ばれる麻薬王たちが組織した
コロンビア人の暗殺部隊を、
クレインらイスラエル人が訓練させ ているフィルムが
世界中のテレビに放映されてしまったのである。
この時クレインは44歳。
逮捕令状が出る前にコロンビアから逃げ出し、
その後イスラエルで起訴されそうになると、
自分たちの活動はイスラエル政府の 許可を受けていたと主張した。
それに対してイスラエル当局は、
「スペアヘッド」社は国防省の「シバト」当局から
確かに輸出許可を得ていたが、
それは外国政 府との取引契約をする認可であり、
犯罪者たちと私兵集団との取引など認めていないと反論した。

●このようにイスラエル人は、
ヨーロッパであれ、アフリカ、アジア、ラテンアメリカであれ、
世界の至る所でいかがわし秘密取引をやっていたのである。
そして、カリブ海の島々から
ヨーロッパの首都に至るまで、
法廷で裁かれるイスラエル武器商人、
麻薬密売人、誘拐犯人たちによって
実態が明らかにされると、
イスラエル諜報組織の名誉は汚されたのであった。


現在191の国が独立を認知されている

********************************

Abu_iyad2
PLOナンバー2 アブ・イヤド
(イスラエルが暗殺)

Abu_jihad
(イスラエルに 暗殺された)
PLO軍司令官のアブ・ジハ-ド


Gassan2
娘を幼稚園に送迎する際に
イグニション・キ-を廻した途端二人とも爆殺された。
著名なパレスチナの作家であり、
アルハダフ誌の編集長(モサドの仕業)

Au_hani5
チョコレートに仕込まれた毒物で暗殺された。
PFLPの創設者。(モサドの仕業)

Ali_hassan_sarameh
「黒い九月」の指導者
アリ・ハッサン・サラ-メ(モサドが爆殺)

Abu_ali2
ラマラ市内のオフィスで会議中イスラエルの
アパッチ攻撃ヘリコプタ-からのミサイル攻撃にて即死。
パレスチナ解放人民戦線の前議長。

Mahmoud_almabhouh
ハマス軍事部門最高責任者の
Mahmoud al-Mabhouh
(ドバイのホテルでモサドに暗殺された。)

Meshal2
暗殺をのがれたハマスのメシャール議長。

Ahmed_yassin
ガザのモスクでアパッチ攻撃ヘリコプタ-からの
ミサイル攻撃にて暗殺された。
ハマスの創設者。(イスラエルの仕業)

Dubai_hit_squad

ハマス軍事部門最高責任者の
Mahmoud al-Mabhouh
(ドバイのホテルでモサドに暗殺された。)
の暗殺実行部隊で判明した暗殺者達。
欧米の情報機関は
「モサドと判ると腰砕けの捜査でお茶を濁して終了。」

イスラエル

1949-1996年までの
カリブ会、サハラアフリカ、南米への
米国の援助

合計625億$

対象:10億5千万人
一人当たり59$

イスラエルへの援助
625億$

対象:イスラエル580万人


毎年米国援助総額の
1/3を
イスラエルが受け取る。






2003年3月
米国政府はイスラエルへ

100億$援助を承認。


100億$あれば
4202251人の無保険の

子供たちを医療保険に加入させられる

もしくは
過去半世紀に置ける
財政危機を相殺出来る



1949から2006までの
イスラエルへの親近援助額

1080億$
現在毎年30億$
1日あたり700万$

イスラエルは国連安保理決議の最悪の違反国
イスラエルの国際法違反を守るため
売国は国連で40回以上拒否権を行使しています。




5番目の核保有国
2300発の核爆弾を保有


パレスチナの総人口の53%が失業
75%が貧困状態
1日2$未満

ガザのパレスチナ人は38年以上にわたる支配下
8000人のイスラエル人の入植者のために
130万人のパレスチナ人が混雑してる

 ガザからの入植者の非難は
入植者全体のわずか2%に過ぎないが、

違法入植者には移転と引き換えに
227000$を約束されてた


イスラエルは米国に総費用22億$経費として要請

現在難民キャンプに住み続ける人は
4255120人

イスラエル支援議員

【衆議院】
石原慎太郎(比例東京)/西村眞悟(大阪17区)/
今井雅人(岐阜4区)/安倍晋三(山口4区)/中山泰秀(大阪4区)/
平沢勝栄(東京17区)大野敬太郎(香川3区)/松原仁(東京3区)/
浅野貴博(比例北海道)/松木謙公(北海道12区)/
石川知裕(北海道11区)

【参議院】
山谷えり子/佐藤正久/
ツルネン・マルティ/榛葉賀津也

【参考・不出馬】
平山泰朗(東京13区)/土肥隆一(兵庫3区)

下記の情報は、
あくまでもその人物のイスラエルに関係する部分だけに注目したものです。
つきましては、ここに掲載されている方々が
他のことでいい仕事をしている可能性を否定するものではありませんし、
もっとひどいことをしているのを隠蔽する意図もありません。
もしあなたが 信頼する人物が掲載されている場合は、
どうかその方に事情を聞いてみてくださいますようお願いします。
(選挙区や政党は変更されることがあります 2012年12月)

制作協力:「ストップ!ソーダストリーム」キャンペーン

衆議院議員
石原慎太郎(比例東京)

日本維新の会 代表
•    日本イスラエル親善協会 元会長
•    日本イスラエル親善協会:
1965年に設立された、
日本における中心的なイスラエル・ロビー団体(圧力団体)。
会長は、キリスト教シオニスト団体
「キリストの幕屋」幹部の神藤燿。
名誉会長は、ニッシム・ベンシトリット・イスラエル大使

•    第一次インティファーダに対する
イスラエルの弾圧が世界的に批判されていた1989年、
日本イスラエル親善協会会長として
イスラエル建国42周年記念集会を東京で開催、
挨拶の中で
「イスラエルという非常に大切な国に対する配慮が
いささか足りない」
と外務省を批判

西村眞悟(大阪17区)

日本維新の会
•    「普天間基地反対を叫ぶ者の背後には
ガザ地区のテロリストと同じ冷酷非情の論理がある」
と主張(参考記事:眞悟の時事通信・連想されるテロリストの作戦)

•    2010年、日本イスラエル親善協会会長・
神藤燿の案内でイスラエルを訪問し
イスラエル建国62周年記念式典等に参加
(参考記事:眞悟の時事通信・イスラエルにて)

•    日本イスラエル親善協会:1965年に設立された、
日本における中心的なイスラエル・ロビー団体。
会長は、キリスト教シオニスト団体
「キリストの幕屋」幹部の神藤燿。
名誉会長は、ニッシム・ベンシトリット・イスラエル大使

安倍晋三(山口4区)

自民党
•    親イスラエル路線を強く打ち出すネット右翼放送
「チャンネル桜」が全面支援
•    日本・イスラエル親善協会副会長の加瀬英明が
イスラエル大使を自宅に招いて行った「朝食会」では、
「アラブの春」による「イスラム原理主義の台頭」を懸念する発言
(参考ビデオ:日本の未来を考える朝食会vol.2(前半)
講師:ニシム・ベンシトリット・イスラエル駐日大使)

今井雅人(岐阜4区)

日本維新の会
•    「稲門杉原千畝顕彰会」事務局次長として
イスラエルの情報戦争に協力(参考記事:杉原千畝顕彰会朝食会)

•    「稲門杉原千畝顕彰会」は
早稲田大学出身の右派議員を中心とした組織
(参考記事:千畝ブリッジングプロジェクト)

•    杉原千畝は第二次大戦末期に
ヴィザ発給を通じてユダヤ人難民を救済したが、
残念ながらその人道的行為が1990年代以降
イスラエルと日本の右翼の交流と宣伝に利用されてきた
(参考記事:イスラエル大使館
【杉原千畝氏へのオマージュ 国交60周年記念コンサート】 )

中山泰秀(大阪4区)

自民党
•    日本・イスラエル友好議員連盟事務局長

•    外務大臣政務官時代にはイスラエルとの関係強化に尽力
(参考記事:中山外務大臣主催
ミセジニコフ・イスラエル議会財務委員長歓迎昼食会)

•    父親の中山正暉は同議員連盟の元幹事長で二代にわたる親イスラエル議員

平沢勝栄(東京17区)

自民党
•    警察官僚時代、日本赤軍対策でモサド
(イスラエルの諜報機関)と親交を深める
•    2011年4月、日本・イスラエル親善協会副会長の
加瀬英明がイスラエル大使を自宅に招いて行った「朝食会」で
「モサドには大変お世話になった。
日本はイスラエルから危機管理とインテリジェンスを学ばなければならない」と発言
(参考ビデオ:【有料】日本の未来を考える朝食会vol.2(後半)/
参考:【無料】日本の未来を考える朝食会vol.2(前半)
講師:ニシム・ベンシトリット・イスラエル駐日大使)

大野敬太郎(香川3区)

自民党
•    日本・イスラエル友好議員連盟元会長であり、
かつ、日本イスラエル親善協会顧問でもある大野功統の二世として出馬

•    日本イスラエル親善協会:1965年に設立された、
日本における中心的なイスラエル・ロビー団体。
会長は、キリスト教シオニスト団体
「キリストの幕屋」幹部の神藤燿。
名誉会長は、ニッシム・ベンシトリット・イスラエル大使

松原仁(東京3区)

民主党
•    「稲門杉原千畝顕彰会」事務局長としてイスラエルの情報戦争に協力

•    「稲門杉原千畝顕彰会」は
早稲田大学出身の右派議員を中心とした組織
(参考記事:千畝ブリッジングプロジェクト)

•    杉原千畝は第二次大戦末期にヴィザ発給を通じて
ユダヤ人難民を救済したが、
残念ながらその人道的行為が1990年代以降
イスラエルと日本の右翼の交流と宣伝に利用されてきた
(参考記事:イスラエル大使館
【杉原千畝氏へのオマージュ 国交60周年記念コンサート】 )

 
新党大地・

党代表の鈴木宗男氏(公民権停止中)は
2009年のガザ侵攻に際しハマースを
「テロリスト」とする認識を政府に確認する質問主意書を出すなど、
突出したかたちでイスラエルの戦争政策に協力。

参議院議員
山谷えり子(比例 ~2016年)

自民党
•    日本イスラエル親善協会顧問
•    イスラエル親善大使
•    キリスト教シオニズム団体「キリストの幕屋」と懇意
•    2012年6月のイスラエル訪問時イスラエル最大の軍需企業IAI
(イスラエル・エアロスペース・インダストリー)を見学、
ガザの人びとの虐殺に用いられている無人航空機を
日本が購入する必要があると主張
•    日本イスラエル親善協会:1965年に設立された、
日本における中心的なイスラエル・ロビー団体。
会長は、キリスト教シオニスト団体
「キリストの幕屋」幹部の神藤燿。名誉会長は、
ニッシム・ベンシトリット・イスラエル大使

佐藤正久(比例 ~2013年)

自民党
•    イスラエルが占領中のシリア領ゴラン高原で
イスラエルの占領を固定化してしまっている
ゴランPKOの初代派遣部隊長

•    2012年11月のガザ攻撃の最中ツイッターで
「ゴラン高原PKO隊長時に、
イスラエル軍の内戦作戦のダイナミックさを体感。
ヒズボラとの緊張が 高まったレバノン正面に戦力集中の為、
ゴラン正面戦車を一晩で民間輸送力をフル活用し
レバノン正面に転用完了。
微妙なバランスを保ちつつ、
戦力転用と速やかな予備役動員で態勢強化する作戦特性だ」
とツイートし
その戦争マニアぶりと
戦争で殺される人がいることへの関心の完全な欠如を露呈
(参考サイト:佐藤正久ツイッター/同ツイート予備)

ツルネン・マルティ(比例 ~2013年)

民主党
•    キリスト教を通じたイスラエルのロビイング活動に協力
(参考記事:「日刊ツルネン」イスラエルに関する勉強会)

榛葉賀津也(静岡 ~2013年)

民主党
•    日本イスラエル親善協会顧問
•    日本イスラエル親善協会:1965年に設立された、
日本における中心的なイスラエル・ロビー団体。
会長は、キリスト教シオニスト団体「キリストの幕屋」幹部の神藤燿。
名誉会長は、ニッシム・ベンシトリット・イスラエル大使
参考:2012年12月の衆院選 不出馬

平山泰朗(東京13区)

日本未来の党
•    「稲門杉原千畝顕彰会」事務局次長代理として
イスラエルの情報戦争に協力(参考記事:杉原千畝銘版)

•    「稲門杉原千畝顕彰会」は早稲田大学出身の右派議員を中心とした組織
(参考記事:千畝ブリッジングプロジェクト)

•    杉原千畝は第二次大戦末期にヴィザ発給を通じて
ユダヤ人難民を救済したが、
残念ながらその人道的行為が1990年代以降
イスラエルと日本の右翼の交流と宣伝に利用されてきた
(参考記事:イスラエル大使館

【杉原千畝氏へのオマージュ 国交60周年記念コンサート】 )

 

土肥隆一(兵庫3区)

無所属
•    人権派として知られるが、イスラエルに関しては
キリスト教を通じた宣伝活動に積極的に協力
(参考記事:エルサレム・サミット・アジア東京大会)
制作協力:「ストップ!ソーダストリーム」キャンペーン
「ストップ!ソーダストリーム」キャンペーン
「BDSでガザを効果的に支援する5つの方法」には、
さらに詳しい情報があります

 
スターバックス

スターバックスの会長ハワード・シュルツは、
イスラエル軍がパレスチナのジェニン、
ナブロス、ベツレヘムなどに侵攻し破壊と虐殺を
欲しいままにしていた 2002年 4月、
シアトルのシナゴーグにおいて、
パレスチナ人を非難しイスラエルへの支持を訴えるスピーチを行い、
観客からスタンディング・オベーションによる喝采 を受けたとのことです。

スターバックスの会長
ハワード・シュルツは活発なシオニスト (用語解説) です。
1998年には、彼のシオニズムへの貢献を讃え
” The Jerusalem Fund of Aish HaTorah ” から
” The Israel 50th Anniversary Tribute Award ”
(イスラエル50周年記念賛辞賞)が授与され、
イスラエル外務省も彼のイスラエルに関するPR活動を賞讃しました。


マクドナルド


マクドナルド会長兼 CEO の Jack M. Greenberg は、
シカゴのアメリカン・イスラエル商工会議所の名誉会長です。

またマクドナルドは、 様々な活動や資金援助を通じて
イスラエルを支援する
” Jewish United Fund “(ユダヤ人基金)
及び、” Jewish Federation “(ユダヤ人協会)の
主要な企業パートナーだとのことです。

” Jewish United Fund ” と ” Jewish Federation ” は、
イスラエル政府がパレスチナ人を追放して
略奪した地域を開発するための資金も提供しています。

マクドナルドは、アメリカ政府が
2001年のアフガニスタン攻撃時にプロパガンダとして行った、
恥知らずな「上空からの食糧ばらまき作戦」
( ” Humanitarian Daily Ration ” 人道的配給)
にも参加していたとのことです。

コカ・コーラ

コカ・コーラ社は、イスラエルに対する様々な形での援助に対して、
イスラエル関連団体やイスラエル政府から表彰されています。

またコカ・コーラ社は、
イスラエル政府がパレスチナ人から略奪した土地に
工場を建設する予定です。そこにはすでに、
インテルの工場があります。建設予定地 の al-Manshiyya 村では、
イスラエル政府によって 300軒あった家が全て破壊され
2000人のパレスチナ人が追放されました。

コカ・コーラ社の製品は多肢に渡りますが、
まず、コカ・コーラが販売されている
自動販売機で売られている商品が
コカ・コーラ社のものであると判断できます。
店頭では商品ラベルを確認すれば判断できます。
日本で販売されている代表的な商品としては、

コーラ、ファンタ、スプライト、
爽健美茶、ジョージア(コーヒー各種)、
リアル・ゴールド、アクエリアス、
紅茶花伝、Qoo、ミニッツ・メイド(フルーツ・ジュース各種)
などがあります。

ネスレ

ネスレは、その多額の投資がイスラエルへ多大な貢献をしているとして、
1998年ネタニヤフ首相(当時)から
“Jubilee Award” を授与されました。

ネスレの製品は多肢に渡りますが、
代表的なものに、
Nescafe(ネスカフェ:インスタント・コーヒー)、
KitKat(キットカット:チョコレー ト)、
Maggi(マギー:調味料)、
Buitoni(ブイトーニ:パスタ&ピザ)、
Perrier(ペリエ:ミラネル・ウォーター)、
Vittel(ヴィッテル:ミラネル・ウォーター)
などがあります。

ダノン

ダノン (ヨーグルト、ミネラル・ウォーターなど)
関連情報:日本で「Danone」を販売しているのは、
「カルピス」と「味の素」の合併会社です。
関連商品:エヴィアン(ミネラル・ウォーター)など多数

ZION主義の功罪

パレスチナは本当に
ユダヤ人のみの故郷なのか?

●元イスラエル首相レヴィ・エシュコルは、
1969年、ダヴァールの会見で以下のような見解を述べていた。

「パレスチナ人とは何か? 私がここへ来たとき、
わずか25万人の非ユダヤ人、
それも主にアラブ人とベドウィンしか いなかった。
この地は、十分開発されていないというより、
砂漠といったほうがよかった。何もなかった。
連中が我々からこの地を取り上げることに興味を持ち 出したのは、
ただ、我々がこの砂漠に花を開かせ、
植民するようになってからだ。」

●つい最近まで、世界の大部分の人は、
少しも疑問を抱かず、
ゴルダ・メイア首相の次のような発言を受け入れてきた。

「どうして我々は、自分たちの占領した土地を返還できようか?
それを返還するにも、受け取る人間がいないではない か。
パレスチナ人などというものはいなかった。
パレスチナにあたかも自らをパレスチナ国民とみなす人間がいて、
我々がやってきて彼らを放り出し、
彼らから 国を取り上げた、ということではなかった。
そもそも、『パレスチナ人』などというものは存在しなかったのだ。」


●今日、パレスチナ人の運命が、
相も変わらず中東紛争の核心を成しているにもかかわらず、
多くの理由によって、
彼らが問題 の本当の焦点になることはもちろん、
これらの人々の存在そのものが無視されてきた。
客観的な観察者たちも横道にそらされてしまった。
というのは、多くのユ ダヤ避難民たちが
ヒトラーの地獄を逃れて
パレスチナに安住の地を求めてやって来た事情を
少しでも知ったりすると、
彼らはおおいに心を動かさずにはいられな かったからである。
新国家形成に見せたユダヤ人たちの大きな成果は、
当然なことに大変な称賛を博した。
しかし、ヨーロッパのユダヤ人たちの苦境はそれとして、
生き残りの犠牲者たちの国家が
あたかも真空状態の中に作られたかのように
見なすべきではないだろう。

●パレスチナに「先住民」が住んでいるという発見は、
初期のユダヤ人入植者たちには
ひどいショックとして迎えられた。
“シオニズムの父”テオドール・ヘル ツルの親密な仲間で、
第1回シオニスト会議の「バーゼル綱領」を起草した
マクス・ノルダウは、1897年のある日、
泣きながらヘルツルの所へやって来て次 のように訴えたという。
「しかし、パレスチナにはアラブ人たちがいる。
私はそんなことを知らなかった!」

●エイモス・エロンは
著書『イスラエル人/建国者たちと息子たち』の中で、
シオニストの入植者たちの非現実性を次のように指摘している。
「復古主義の運動ほど、自己中心的なものはない。
何十年もの間、シオニスト指導者たちは、
アラブ人を見ていながら同 時に見ないという、
奇妙な薄明の世界へ足を踏み入れてきた。
彼らの態度は盲目と幼稚さの、
希望的観測と
押し付けがましい善意との一体となったものであり、
また、しばしば国際的な出来事の一要因であり、
ときにはその理由でもあるあの無知そのものであった。
この無知というものがなかったら、
ほとんどのシオニス ト指導者たちは、
初めから彼らの事業に
あえてとりかかろうとはしなかったであろう。」


●伝統的にパレスチナと呼ばれるこの土地の歴史は、
Zion主義を掲げる人々がやって来るまで、
ほとんど全面的にアラブ的 な性格を帯びていた。
しかも、
彼らの先祖がパレスチナを最初に征服したのは
紀元前13世紀頃であり、
パレスチナ人のほうが
彼ら以上に古くからパレスチナに 定住していたのである。
ちなみに、「パレスチナ(Palestine)」という名称は
「フィリスティア(Philistia)」という言葉に由来し、
これは聖書に登場するペリシテ人あるいは
“海の民”
と呼ばれる人々で、
彼らは南海岸一帯を占拠していたのである。

●この地域の人類学的調査に基づいて学者たちは、
パレスチナ人たちは、
ユダヤ人の先祖たちがパレスチナに定住する以前の時代に、
様々な人種が混ざりあって
形成されたグループであることを発見している。
紀元前4000年から900年までの間、
この地で優勢だった人種グループはカナン人である。
エリコ、メギ ド、ベト・シヤンといった町は、
青銅器時代初期のパレスチナ文明のセンターであったが、
この時代の中期に、
パレスチナ人とフェニキア人との間の結び付きが 発展したのである。


●結論から言えば、
パレスチナはユダヤ人のみの故郷ではないのである。
シオニストたちはユダヤ教を否定したら、
パレスチナに国をつくることを
正当化できないということをよく知っている。
『旧約聖書』の中で神がユダヤ人を選んで、
カナンの地(パレスチナ)を与えたからこそ、
この地に「戻った」と言えるわけである。
その根本のユダヤ教を否定 したらどうなるのだろう。
単に昔住んでいたという理由だけで、
他人の地に押しかけて、土地を奪ったことになってしまう。
●皮肉なことに、
『旧約聖書』の「ヨシュア記」には、
モーセの後継者たちが、
いかに古代パレスチナ人を虐殺して
カナンの地を奪い取ったかが記されているのだが、
既にこの当時から、
パレスチナ問題の“原型”が存在していたことが伺えるのである。

  アーノルド・トインビー博士による批判

●第二次世界大戦中、
ドイツで公然と行なわれたユダヤ人迫害に関して、
ヨーロッパの国々もアメリカも、長い間沈黙を守った。
第二次世界大戦中、アメリカはユダヤ人に対する入
国査証の発給を非常に制限し、
ほとんどシャットアウトの政策であった。
しかし、戦後、イスラエルが建国されると、
アメリカはイスラエルに対外援助の3分の1に当たる
年間30億ドル以上のカネ(無償援助)を送り、
武器弾薬を送った。アメリカのバックアップがあって、
イスラエルはかろうじて国家として成り立ってきたのである。

●イギリスの有名な世界的歴史学者
アーノルド・トインビー博士は、
アメリカの判断は間違いだったと言っている。
何故、間違いかというと、確かに歴史的にいえば、
イスラエルはユダヤの土地である。
だからこれをユダヤに返すことは、自然であるように見える。
しか し、2500年間アラブの人々が住んだのだから、
それを2500年経って取り上げるのは不自然である。
ユダヤ人は一人残らず全部がいなくなったのではな く、
嫌気がさして脱出した人もいただろうし、
ユダヤ人同士の競争で追放された人もいるだろう。
とにかく、アラブの人々が2500年間も住んでいるのだから、
そこに来て、アメリカが武力で駆逐し、
強制的にユダヤに戻したことについては
納得しか ねるものがある。
アメリカがもしもそれだけの情熱があるのならば、
アメリカ国内でユダヤ人に土地をやったらよかったではないか。
そうすれば、
このような国 際紛争の種は蒔かれないで済んだであろう、
とトインビー博士は言っている。

イギリスの歴史学者
アーノルド・トインビー
(1889~1975年)
20世紀最大の歴史家の一人である

●さすがにアーノルド・トインビーは歴史学者らしく、
長い歴史の目でみるとアメリカのやったことは
間違いであったと言っている。
アメリカは幸い、
日本の面積の25倍という広大な土地があるのだから、
その一部をユダヤ人にやって、
そこにキミたちの国を作りたまえといえば、
ユダ ヤ人はもっと今より幸せだった。
アラブと戦争をしないで済んだし、
アメリカ国内にはユダヤの友達が沢山いるのだから、
さぞ立派なイスラエルが出来たであろ う、
というわけだ。

(私見、これはかなり横暴な言い方。
ネイティブアメリカンを完全無視。。)


ユダヤ人テロ組織がパレスチナ人を虐殺した
「デイル・ヤシン事件」


●1948年、建国をめぐって
ユダヤ人とアラブ人の衝突が激しくなったとき、
イスラエル側は「Dプラン」と称する
パレスチナ占領の総合計画をたて、
13の軍事作戦を行なった。

エルサレムの死守をかけて
ベン・グリオン(初代首相兼国防相)の指揮のもとに行なわれた、
エルサレム街道沿いのカステルをはじめとする
パレスチナ人村落の根こそぎ破壊を目的とした
「ナチション作戦」はその代表例である。

●この作戦中の4月9日、メナヘム・ベギン率いる
「イルグン」とイツハック・シャミル率いる
「シュテルン」の両ユダヤ人テロ組織が、
中立を表明していたデ イル・ヤシン村を総攻撃。
無抵抗の254人の男女、子供までが無差別に虐殺され、
生き残った者は血だらけの服のままエルサレムで
「勝利の行進」をさせられ た。
悪名高い「デイル・ヤシン事件」である。

●中立の村でさえこんな目に合うと知った
他の村々のパレスチナ人たちは、
ユダヤ移民の凶暴さにパニックに陥リ、
それをイスラエル側がさらに煽りたてることによって、
大量のアラブ人が家と土地を棄てて逃げだした。
こうして1948年5月14日のイスラエル建国以前に、
すでに40万人のパレスチナ難民が発生していたのである。

メナヘム・ベギン率いる
ユダヤ人テロ組織
「イルグン」が爆破した
「キング・デービッド・ホテル」


●この虐殺事件を指揮したメナヘム・ベギンは
「もしデイル・ヤシンの勝利がなければ、
イスラエルの国は生まれなかっただろう」と言っている。
なお、このメナヘム・ベギンだが、
かつてその首に賞金がかけられたことがある。
イギリスがまだパレスチナを委任統治していた頃、
エルサレムで最も由 緒あるホテルといえば
「キング・デービッド・ホテル」だった。
その「キング・デービッド・ホテル」で1946年7月、
大爆発が起きた。多くのイギリス人将 校を狙っての、
ベギン率いる「イルグン」のテロであった。
このことで、イギリス政府はベギンをお尋ね者にしたのである。
このように、ベギンは筋金入りのテロリストであったが、
1977年にイスラエル首相になっている。
1978年には「ノーベル平和賞」を受賞している。


※ 1948年、アインシュタイン博士は、
ハンナ・アレントらユダヤ系知識人と連名で、
訪米中のメナヘム・ベギンとその政党ヘルートを
「ファシスト」と呼び、 イスラエルのデイル・ヤシンの虐殺事件などの
テロ行為を非難する書簡を
『ニューヨーク・タイムズ』紙上に発表している。

ユダヤ人科学者アルベルト・アインシュタイン博士
ユダヤ人政治思想家ハンナ・アレント女史

アインシュタイン博士は、
パレスチナにユダヤ人国家
「イスラエル」を建設するという
「シオニズム」に理解を示して
いたが、
権力や権威的なものは嫌いで、
第2代イスラエル大統領
への就任を辞退していた。
彼は拡張主義の考えはなく、
パレスチナ人と共存できると信じていたのである。

イスラエル共和国建国によって
破壊されたパレスチナの村々


●イスラエル建国神話の一つに次のようなものがある。
「パレスチナ人たちはその土地を所有していたが、
長い間、それに対して何もしなかった。
彼らはほとんど土地を開拓せ ず、
ただわずかなみすぼらしい農場があるだけだった。
我々はそれらの土地を合法的に買収し、
今日イスラエルで見ることのできるあらゆるもの、
例えば、村や 町、都市、農場など、
これらは全てユダヤ人が、
もっぱら1948年以降に造りあげたものである云々。」

●確かにイスラエルが建国される以前の時期は、
ユダヤ人のパレスチナ流入は
「土地の買収」を通じて行なわれた。
「ユダヤ機関(JAFI)」
をはじめとする シオニスト組織は、
世界のユダヤ人から寄付を募り、
その資金をパレスチナでの土地の購入にあてていた。
パレスチナに土地を所有する不在地主たちは
Zion 主義者に土地を売却し、
パレスチナ人の政治家や有力者たちの中には、
口ではシオニズムに反対しながらも、
実際には金のために土地を手放した者もいたのであ る。

●しかし、かの“神話”は
果たして本当のことを全て物語っているだろうか?
真相を探る者は、
ユダヤ人が引き継ぐ以前から、
パレスチナは時代とこの地域の文化に合わせて開発されてきた、
という事実にぶつかるだろう。
そして、イスラエル共和国が建国されると、
状況は急激に悪化し、
ユダヤ人の入植活動は強硬なものになり、
パレスチナにもともとあった数多くのアラブ人の村々が
強引に奪われていったという事実にもぶつかるだろう。

●1948年にイスラエル共和国が建国される以前、
パレスチナの15の地区に475の村があった
(これはかなりの数の移動 する
アラブ部族の居住地区は含まれていない。
それは村とは見なされなかった)のだが、
1948年以降、385を下回らない村、
つまり、もとあった村の4分 の3が、
イスラエル当局によって完全に破壊され、
わずか90の村が残っただけである。
そして、特に重要な点は、パレスチナの村々が破壊されたのは、
戦争によるものではなく、
1948年の第1次中東戦争 が終わってしばらくたってから、
本格的に開始されたという事実である。
また、パレスチナ住民の追放と村の破壊は、
驚くことに、現在まで延々と続いていると いう事実である。

●ナチの強制収容所の生き残りであり、
人権と公民権のための「イスラエル連盟」を組織した
イスラエル・シャハク博士は、1973年の報告書
『イスラエルで破壊されたアラブの村』の中で、
次のようなことを語っている。
「1948年以前の、
イスラエル国家内のアラブ人居住区に関する真実は、
イスラエル人の生活の中で最も固く守られて いる秘密の一つである。
書籍であれパンフレットであれ、どんな出版物も、
その数なり位置などを知らせてはくれない。
これは意図があってのことで、
そうすれ ば公的に受け入れられている“神話”、
すなわち、ユダヤ人は誰もいない土地に入植したのだ、
という作り話を学校で教えられるし、
訪問者にも語ることができ るからだ。」

●彼の報告書によると、
例えば、31の村があったラムレー地区のように、
多くの地区でアラブ人居住区がイスラエル人によって
とり払われてしまった。
エルサレム郊外のヤッファ地区では、
ただヤッファ市だけが残った。
破壊された385の村々のほとんど全ては、
墓地や墓石まで含め て文字通り、
ブルドーザーで根こそぎにされてしまったという。
これでは、通りがかりの訪問者が
「そこは全くの砂漠だった」と聞かされても、
信じるしかないだろう。

●この進め方には、いつも同じパターンが適用されている。
ある日、安全のためとか公共物建築のためとか
戦争の危険があると かいって、
パレスチナ人村民の一時退避が命令される。
そして村民がそこを離れたあと、
その村の土地は没収され、
ユダヤ人入植地(多くの場合キブツ)に与え られるのである。
これには、次のような法律が用いられた。
まず「不在者財産没収法」(1950年)がある。
この法律は、
1948年 11月29日の国連分割決議の日から、
翌48年9月1日までに、
一度でも自分の居住地を離れた者(不在者)に適用される。
戦火が近づいたために近隣の村に 一時避難した者、
イスラエル軍の命令で村を立ち退いた者、
土地・家屋が自分の所有物だという証明書がない者、
そしてその期間、村や町を出なかったと証明で きない者は、
この法律の適用を受け、家屋や財産は没収された。
イスラムの財産(ワクフ)も没収された。
イスラエルの占領した土地の中にあった370の村の うち
300村が、この法律の適用を受けた。

●土地没収の2番目の法律は、
イギリス政府が主として
ユダヤ人テロリストを対象に作った
「緊急法(防衛法)」(1945年)
であるが、
パレスチナにいたユ ダヤ人弁護士が
「ナチスの法より悪質」
と非難したいわれを持っている。
かつて反対した弁護士の中に、
のちのイスラエル法務大臣が含まれているのは
皮肉なこ とであるが。
この「緊急法」の109条には「軍司令官」は命令によって、
ある市民の特定の地域における
居住を禁じることができる (追放)」とあり、
また112条は「軍司令官は、
市民の国外追放、財産没収、
帰国禁止を命令することができる」、
そして119条は
「軍司令官は、市民の家 屋を没収、
あるいは破壊することができる」とある。

●最も適用されたのが125条で、
これは「閉鎖地域」と呼ばれ、
「軍司令官は、ある地域の閉鎖を命令することができる。
この地域に入ること、
あるいはそこから出ることは禁止される」
というものである。
この125条の場合、
閉鎖地域の境界は一般に明らかにされない。
だから人々はこの法を守りようがなく、
知らずに法を犯すわけである。
これは主として、
パレスチナ人が自分の村に戻ろうとするときに適用され、
14の村の土地が閉鎖、没収された。

●適用の象徴的な例は、
バルアム村に対してのものである。
この村は第1次中東戦争では中立を保っていたが、
125条によって「閉鎖地域」と宣告された。
こ れを不服とした住民が、
1953年にイスラエル最高裁判所に訴えると、
裁判所は、彼らの帰村は認められるべきである、
との判決を下した。
しかし、この判決に対し、
軍当局は乱暴な対応に出た。
イスラエル軍の歩兵と爆撃機は、
1953年9月16日、
人一人いない村を攻撃し、爆破した。
爆撃は全村が焼けて廃墟になるまで続けられた。
そして、
この村の土地は近くのユダヤ人入植地に与えられた。
村を破壊された住民たちは、
近くのグーシュ・ラハブ村で
掘立て小屋の生活をするはめになり、
政府の補償金を断り、
祖国の中の難民として生活している。

●最近では125条は、
ガリラヤ地方のデイル・アル・アサド村、
ビマ村、ナハフ村に適用され、
村々の耕地のほとんどが没収され、
村民1万人は一日にして日雇い労働者となった。
そして没収された土地の上には、
ユダヤ人の近代的な町カルミエールが建設された。

●イスラエル政府は、
この悪質な「緊急法」を更に強化するために、
1949年に新しい条項を盛り込んだ。
「安全地域」もその1つであり、
これは、ある地域を安全上必要と宣言したら、
住民は2週間以内に立ち退かなければならない、
というものである。
ガリラヤ地方北部の
パレスチナ人キリスト教徒村イクリットは、
1948年10月31日、イスラエル軍に占拠された。
村民は2週間だけ村を離れるように命令され、
当座の食糧だけを持って立ち退いた。
しかしいつまでも帰村が許されず、
村民はイスラエル最高裁に訴え、
帰村は 正当との判決を得る。
が、その後村民が村に戻ろうとした時、
この「安全地帯」条項が適用され、
村民がもう一度裁判所に訴えた直後の
1951年12月25日のクリスマスの日、
村は爆破されたのである。
土地は近くの2つのユダヤ人入植地に分け与えられた。

●そのほか1948年10月15日に施行された
「未耕作地開拓のための緊急条項」というものがある。
これは放置されている土地を
耕作する意志のある者の手 に移すための条項だが、
他の法律と組み合わされて用いられた。
つまり、ある地域を「安全地域」なり
「閉鎖地域」と宣言して、出入りを禁止すると、
そこが “未耕作地”となる。
そのあとこの法律を適用して没収し、
耕す意志のある者、つ
まり近くのユダヤ人入植村に渡すわけである。
キブツ(イスラエル共産村)では今でも
「人の住まない荒れ地を緑にしたのは我々だ」と言ったり、
「アラブ人は怠け者だ」と言っているが、
その背景にはこうした法律があるのである。
しかしイスラエルの一般のユダヤ人は、
これらの法律の存在を知らないという。

●1953年、2人のユダヤ人が殺された報復に、
イスラエル軍はヨルダンのキビア村を襲撃し、
無抵抗の住民50人を殺害した。指揮を取ったのは、
のちのイスラエルの国防相で
レバノン戦争の責任者シャロンである。

●1956年、カセム村の村民は、
外出禁止令を申し渡された。
命令発効のたった30分前である。
多くの村民は遠く働きに 行っていて、
30分以内に村に戻れないことは明らかだった。
命令を受けたイスラエル兵は、
「女、子供はどうするのか」
と質問した。
上官は
「哀れみをかける な」
と言った。
こうして、仕事から次々と帰村した村民47人が、
待ち伏せされ、並ばれて処刑されたのである。
最後に死んだのは、
トラックに乗っていた女性 14人を含む17人である。
イスラエルでこの事件の報道管制を敷いている間に、
ヨーロッパにこのニュースが伝わり、
政府は事件を隠しおおせなく なった。
責任者たちは裁判にかけられた。
しかし次々と減刑され、
判決から1年半で、全員が釈放される。
しかもその1人は市役所のアラブ課の責任者として
迎 えられたのである。
最高責任者は
「単なる技術上の過失」
を犯したとして、
実に10円にも満たない形式だけの罰金で釈放された。

●1943年にイギリスが施行した
「公益のための土地取得法」も適用された。
政府の建物を建てるという理由で、
ナザレの広大な土地が没収され、
そこにユダヤ人だけ住める街、アッパー・ナザレが建てられた。
これ以外にも、村民を車に乗せて国境まで連れて行き、
銃で銃殺した例は枚挙にいとまがない。
1949年のアナン村、クファル・ヤシフ村、
1950年のマジュダル村の人々、
そして1959年には多数のベドウィンが、
ヨルダンやエジプトに追放されている。
こうして取得された土地は、
全てユダヤ国民基金の手に移され、
そこからユダヤ人入植者に渡された。土地が政府のもの なら、
その土地は国民であるユダヤ人と
パレスチナ人のために用いなければならないが、
ユダヤ国民基金のものなら、
ユダヤ人のためだけに用いることができる からである。

●1973年4月、
ナブルス東南6マイルのところにある
小さなパレスチナ人の村、
アクラバで、4000人の農民たちが
自分たちの土地を売ることを拒絶したとき、
イスラエル当局は凄まじい行動を起こした。
彼らはバイパー機でアクラバ村上空を飛行し、

村の小麦畑にあろうことか枯葉剤を撒き散らし、
一夜にして全ての小麦を ダメにしてしまったのである。
彼らは厚かましくもこの過激な行動を素直に認め、
それはただ
「イスラエル軍が立ち入るなといった土地で
頑固に農耕を続けてい る村民たちに教訓を与える」
ためだとの声明を出していた。

●また、パレスチナ人のゲリラ活動が活発になり始めると、
イスラエル政府はこれらゲリラ活動に
厳罰で対処していったのだが、
1人のゲリラが出たら、
彼の家 族の住む家を爆破し、
やがて付近の住居全部をダイナマイトとブルドーザーで破壊していった。
ナチスの用いたような
「共同懲罰刑」を課したのである。
ヒルフール市では一度に30軒の家が破壊された。
やがてガザのキャンプでは、
イスラエル軍のパトロールが行ないやす いようにと、
家々を破壊して道路が広げられることになった。
子供のデモも容赦なかった。
デモ規制による死者が増え、
ヨルダンへの追放、逮捕、拷問が伝えら れるようになった。
そのほか、ヨルダン川を渡って戻ってこようとした
パレスチナ難民が、女・子供の区別なく、
警告なしに次々と殺害されていったことも
イスラエルで暴露された。

●イスラエルの歴史は、隠されている。
そして人々はそれを知っているけれども、
口をつぐんでいる。それに言及すれば、
自分 がそこに住む正当性がなくなるからだ。
最初のうちイスラエル政府のやり方に抗議していた人々も、
やがて沈黙していった。むしろ左派に属する人ほどその傾向 が強い。
最近では極右の人は堂々と言うようである。
「なるほど、俺たちは不正を犯した。
しかしそれがどうだっていうんだ。
ここは神が俺たちに与えた土地なのだ……」

次々と明るみに出された
パレスチナ人に対する拷問の実態

●ナチスの迫害にあった人々の国家が、
こともあろうに他の人々を拷問するなどとは信じなかった国際社会も、
アムネスティ・インターナショナルや
国際赤十字が多くの証拠資料を提出するに及んで、
信じるほかなくなった。

●パレスチナの政治犯、特にイスラエルによって
無期限に行政拘留されている者について、
国際赤十字の報告(1968年12月5日)はこう述べている。
「我々が訪れたときは1人の看視人もいなかったが、
1つの獄房に81人の囚人たちが押し込まれていた。
囚人たちは 皆、トイレや洗面所を使うときでさえ、
獄房を離れることを許してもらえないと申し立てた。
彼らは床からたった15センチのところにある
獄房の蛇口を使わね ばならなかった。」

●1970年4月12日付の
アムネスティ・インターナショナルの報告
『イスラエルの拷問法』は、
イスラエルがパレスチナ人囚人に対して
行なっている拷問法を暴露した。

そこには、「後ろ手に手錠をかけられた囚人に警察犬を放つ。
警察犬は囚人を地面に倒すように訓練されている」
「ペン チで指の爪をはがす。
コショウ液を注射する」
「ある種の化学物質(恐らく神経刺激物)を
固く握り締めた囚人の手の中にさし入れ、
電気ショック反応を起こさ せる」
などなどといった衝撃的な記述があった。

●1977年6月19日付の
ロンドン『サンデー・タイムス』は、
4ページにわたって、
パレスチナ人に対するイスラエル当局 の虐待や拷問に関する
詳しいレポートを載せた。
取材に当たったポール・エディとピーター・ギルソンは、
西岸地区でイスラエル治安警察に逮捕され、
自供させ るために拷問を受けた
44人のパレスチナ人たちにインタビューをした。
そのうちの22名は、
まだイスラエル占領下に住んでいるにもかかわらず、
自分たちの 名前を公表してよいと同意した。
残りは名を伏せることを望んだ。
同紙は
「これらの拷問は極めて組織的に行なわれているので、
単にひと握りのはね上がり者が
やっているのだと見逃すことはできず、
治安当局の全てが関与している」
と述べた。
6つの主要な結論は次のようなものである。

1)イスラエルの治安・諜報機関は、
拘留中のパレスチナ人たちを虐待している。

2)虐待のいくつかは単に原始的なもので、
例えば長時間にわたる殴打。
しかし、もっと洗練されたやり方も使われている。
電気ショックによる拷問、
特別に作られた独房に閉じ込める方法など。

3)拷問は4つの主な占領都市、
西岸地区のナブルス、ラムレー、ヘブロン及び
南のガザにある刑務所、
ロシア人居留構内として知られるエルサレムの
キャンプ及びサラファンドの巨大な軍事施設内の
計6つのセンターで行なわれている。

4)「シン・ベト」など
イスラエルの治安機関すべてが関与している。

5)拷問は整然と組織化されている。
それはあるレベルの意図的な政策として
許可されているように思われる。

6)拷問は3つの目的に利用されているように見える。
第一は情報を引き出すためである。
第二はイスラエルの「安全」を損ねたという
自白を引き出すためで ある。
自白は法廷での証拠として扱われる。
第三は占領地区のパレスチナ人たちに対して、
おとなしくしていれば痛い目にあわないで済むと教えるためである。

●1977年9月、
「スイス人権連盟」はイスラエルによる
パレスチナ人の権利侵害の代表的な例を確認し、
次のように報告した。

「西岸地区のイスラエルによる占領は、
人権に関する国際宣言条項を
繰り返し侵害する事態を招いている。
例えば、無数 の勝手気ままな逮捕、
長期拘禁及び国外追放(宣言第3条違反)。
強制定住、国境を越えることに対する厳しい制限と
帰還の禁止(宣言第13条違反)。勝手気 ままな土地収用、
建物の建造と取り壊しの禁止(宣言第17条違反)。
一般的かつ組織的な拷問の実践(宣言第5条違反)。
西岸地区におけるユダヤ人とパレス チナ人の間の、
目にあまる不平等(宣言第2節第2条違反)など。」

イスラエルの現実に失望した
ユダヤ人による
反シオニズム運動


●イスラエル共和国内には
「マツペン」と呼ばれる組織があったが、
この組織は1962年に
イスラエル共産党を出た人々を中心に結成されたもので、
シオニズムに反対するイスラエルの左翼組織として、
やがて海外でも名を広めた。
「パレスチナ人とイスラエルのユダヤ人の
シオニズムからの解放は、
小さな地域からの解放からは達成できない、
全アラブの課題である」という彼らの分析は、
アラブ諸国の解放運動に大きな影響を与え、
海外支部は各国の
解放運動の人々の交流の場となっていった。

●このマツペンのメンバーのほとんどは、
イスラエルのユダヤ人であるが、
パレスチナ人の活動家も参加していた。
マツペンは、シオニズムが西欧植民地主義の 後ろ楯で
ユダヤ人だけのための国家建設を目指したため、
必然的にパレスチナ人に対する
差別を生み出したと批判。
「ユダヤ人とパレスチナ人の共存できる社会 の建設」
をスローガンにして、
1967年の第3次中東戦争以降は、
占領地の即時返還を求めて活動していた。
彼らのデモは群衆に蹴散らかされ、
占領反対の意見広告は各新聞から掲載を拒否されたものの、
マツペンの理論には
パレスチナ人との共存の可能性があった。

●しかし、マツペンは1972年に分裂を始め、
ダイナミズムを失っていった。
その一番の原因は、
パレスチナ人との共同の闘いを具体的に作り上げることに
失敗したことにあるという。
元マツペンのエウド・エンギルは次のように語る。
「我々は進歩リストという運動を作った。
しかしこれからは何も生まれなかった。
目的は共存なのに、
組織内ではユダヤ 人とパレスチナ人はバラバラだった。
そして選挙で3000のユダヤ人票と
2万のパレスチナ人票を集めたが、
パレスチナ人は、こんなに得票に差があるのに、
なぜユダヤ人とパレスチナ人の
資金割りを同じにしなければならないのだと抗議し、
対立した。そして進歩リストは崩壊した。
後にユダヤ人がPLOとの共闘を 申し入れたときも、
彼らは自分たちだけでやりたいと言ったのだ。」

●マツペンの分派の一つは
激しいやり方で“共存”を追求した。
ダウド・トゥルキというキリスト教徒のパレスチナ人と、
ウ ディ・ヤディブというイスラエル軍落下傘部隊の将校は、
1972年のマツペン分裂とともに地下戦線の活動に入り、
本気で「パレスチナ・ユダヤ革命軍」を作 ろうとした。
このユダヤ将校ヤディブは
パレスチナ・ゲリラ組織と接触するために、
キプロスを経てシリアに入り、
武器と資金の調達 を要請した。
しかし会見は不成功だった。
彼はイスラエルに戻ったところを逮捕された。
一説には、手引きした人間が
イスラエルの情報機関の人間だったと言わ れている。
結局、「パレスチナ・ユダヤ革命軍」構想は頓挫し、
ユダヤ将校ヤブィブとパレスチナ人トゥルキの2人は
「国家反逆罪」で告訴され、17年の実刑判決を受けたわけだが、
これはイスラエル史上初めて、
ユダヤ人とパレスチナ人に同じ量刑が
言い渡されたケースであるという。


●さて、話が変わるが、
1961年にアメリカからイスラエル共和国に移住した、
ジャック・バーンスタインという
アシュケナジー系ユダヤ人は、
イスラエル共和国で生活を始めた時から、
何か否定できない
大きな違和感・失望感を抱くこととなったという。
彼がイスラエル共和国で見出した真実は、
イスラエル共和国が
「迫害されるユダヤ人のための宗教的避難地」
などではなく、
狂信的かつ急進的なシオニストの
“警察国家”であり、
威圧的な人種差別主義者の
縄張り以外のなにものでもないということであったという。
落胆と失望にさい悩まされた彼は、
6年半の滞在ののち、
アメリカに戻り(1967年12月)、
『人種差別主義的マル クス主義的イスラエルにおける、
一アメリカ・ユダヤ人の生活』(1984年)、
『中東に突き刺さったトゲ、さらばイスラエル』
(1985年)というユダヤ 内部からの“告発の書”を公刊した。
(ちなみに彼はイスラエル滞在中に、
イラクから来たスファラディ系ユダヤ人の女性と結婚した)。

●彼は「アメリカの福祉と平和のために、
アメリカはイスラエル共和国の
無神論的マルクス主義的指導者たちを支持することを
中止しなければならない。
さもなければ、
更に破滅的な結果がアメリカに襲いかかるだろう」
との結論に達したという。
現在、彼はシオニストたちがアメリカに敵対的で、
アメリカの奴隷化を企図しているという立場から、
「親アメリカ・ユダヤ協会」という
アメリカを愛する人達による組織を創設し、
反シオニズム運動を展開している。


●ところで、初期のシオニストの中に、
ユダヤ人の良心を燃え立たせようと
試みた人々がいたことも見逃すことはできない。
その中の一人が、ヘブライ大学初代学長の
ユダ・マグネス博士である。
博士は、アラブ人とユダヤ人の友好を目指す
「イ フド運動」の実現に協力したが、
イスラエル建国に先立つ激しい対立の間、
アラブ・ユダヤの両民族の“共存”を大胆に支持して、
彼は次のように述べていたの である。
「我々は唯一のこと、すなわちアラブ人たちのことを除いて、
全てのことを考慮してきたように思う。
……しかし、ユダ ヤ人たちが、
自分たちの直面する最も重要な問題として、
アラブ人問題を念頭に入れるべき時がやって来た。
もし我々がこの生活圏に住むことを望むのであれ ば、
我々はアラブ人と一緒に住まなければならない。」

イスラエルの現実に失望した
ユダヤ人による反シオニズム運動 2


●ユダヤ系アメリカ人のマーティ・ルーゼンベルスは、
現在、ヨルダン川西岸のラマラ市にある人権擁護団体
「アル・ハック」で、パレスチナ人の
労働問 題の調査を担当するスタッフとして
勤務しているが、彼の少年時代は両親の影響もあって、
熱狂的なシオニストであったという。
彼は極右のシオニスト組織 「JDL」の集会や
行事に進んで参加していたという。

マーティ・ルーゼンベルス

●彼がシオニズム運動から離れたのは、
大学生のときであった。彼は大学時代に
パレスチナ・アラブ人学生と出会うことで、
パレスチナ問題の真相を知ら された。
シオニストの彼にとって、
それは大きな衝撃だった。
初めはどうしても信じられなかったし、
信じたくもなかった。
しかし彼らと話をすればするほど、
シオニストの立場を維持し
それを正当化していくことができなくなっていったという。

「それまで私にとって、パレスチナ人とは
地平線に見え隠れする幽霊、
現実の人間とは程遠い悪魔、
または残酷なテロリストでした。
しかし実際に会った パレスチナ人は全く違っていました。
テロリストのように銃を下げてもいません。
彼らは人格を備えた、
現実の人間だったのです。」

「彼らはパレスチナの町や村に住み、
独自の文化を持つ人々でした。
パレスチナは『人間の住んでいない土地』ではなく、
そこに既に農耕社会が存在して いたのです。
ある地域で、
ユダヤ人が砂漠を緑の農園に変えたのは事実です。
しかし、それは問題の核心ではありません。
シオニストたちはそれを強調すること で、
パレスチナの土地が『捨てられた土地』であり、
ユダヤ人が保有する権利があるのだと
外に宣言したいのです。」

●更に、彼は次のように語る。
「シオニストたちは、
反シオニズムと反ユダヤ主義とを混合してしまいます。
それは反アパルトヘイトと反白人運動とを混合するのに
よく似ています。」
「反シオニストという私の現在の立場は、
決して、私の『ユダヤ人』としての
意識を弱めるものではありません。
むしろ一層強く
『ユダヤ人』であること を意識するほどです。
私は『ユダヤ人』であることを隠すつもりはありません。
エルサレムでのユダヤ伝統工芸品の展示会へ出かけると、
その素晴らしい文化遺 産に感動し、
自分がユダヤ人であることに誇りを抱きます。」
「私がユダヤ人として生まれユダヤ人として育ったことは、
私の思想形成の上で大きな要素を占めています。
それは私の誇りです。だからこそ、
イスラエ ル占領地のユダヤ人入植者たちが
『ユダヤ主義』を歪曲し、
『シオニズム』として政治的に利用し、
しかも私と同じ『ユダヤ人』の名を語っているのを見ると、
激しい憤りを覚えるのです。『ユダヤ主義』全体が
『シオニズム』によって破壊されています。
大半のパレスチナ人は『シオニズム』
以外の『ユダヤ主義』を知 りません。
自分たちを抑圧し圧殺するイスラエル人の姿を
『ユダヤ主義』と結び付けてしまう。
それが私を当惑させるのです。」


●現在、パレスチナの支援活動をしている
ユダヤ系アメリカ人のバーバラ・ルーバンも、
かつては熱烈なシオニストであったという。
1967年、イスラエルが周囲のアラブ諸国の大軍を
ほんの6日で打ち破った第三次中東戦争は、
彼女を狂喜させたという。
また、1982年、
イスラエ ルがレバノンに侵攻し、
爆撃や虐殺で多数のアラブ人、
とりわけパレスチナ人が殺戮された事件も、
当時のルーバンにとって
ユダヤ人としての良心を痛める出来 事ではなかったという。
彼女は
「アウシュヴィッツに代表されるユダヤ人の迫害は、
ユダヤ人には二度と起こってはならない。
そのためには、
ユダヤ国家イスラエルは
強大であり続けなければならない。
レバノン侵攻もそのためには必要だった」、
というシオニズム特有の論理に染まっていた。
それは、自分の成長の過程において
最も重要 な影響を与えた
両親から教えられたことだったから、
それが間違っているかも、と疑うことなど、
当時の彼女には考えも及ばなかったという。

バーバラ・ルーバン

●そんな「熱烈なイスラエル支持者」
のルーバンの転機となったのは1984年、
大統領候補として立った
ジェシー・ジャクソンとの出会いだったとい う。
ジャクソンとの出会いが、
彼女のイスラエル観とパレスチナ人観を180度変えた。
ジャクソンの選挙運動に参加するまで、
彼女は一度もパレスチナ人と出 会ったことがなかった。
彼女の描く「パレスチナ人」とは、
「ユダヤ人の赤ん坊を殺戮するテロリスト、
それを代表するアラファト」のイメージであった。
だ が、選挙運動を通して知り合ったパレスチナ人は、
そんな「残忍な怪物」ではなく、ユダヤ人と同じように教養のある、
人間性豊かな人々であったという。
しかしイスラエルの政策に反対することは
「反ユダヤ主義」ではないことを理解するまでに
長い期間を要したという。

●1987年、ルーバンは、
イスラエル占領地の調査団の一員として
イスラエルを訪問する機会を得た。
彼女は自分の目でパレスチナ難民の現実をまざまざと見た。
「信じられなかった。
ただ、信じられない出来事だった…」
占領地で見た出来事をルーバンはそう形容した。
彼女がパレスチナ人の家に招かれて食事をしている時、
突然、上空をイスラエル軍のヘリコプターが旋回して、
上空から催涙弾が投下されたという。
そし て村人が逃げまどう間、
今度は実弾を地上に向けて乱射し始め、
人々は催涙ガスのために家の中にいることもできず、
かといって銃撃のために外に出ることもで きず、
おろおろするばかりであったという。

●また、彼女は目の前で、
視察団を歓迎する村人のデモをイラスエル兵が急襲し、
デモに参加していた12歳の少年が、
イスラエル兵に意識を失うまで殴られるのを、
目撃したという。
現場の写真を撮った瞬間、兵士たちが、
今度はその彼女たちの視察団の所へ走り寄ってきてカメラを強奪し、
中からフィルムを抜き取ってしまったが、
こ の時、彼女は蛮行を働くその兵士たちをまじまじと見て、
「これが、かつて誇りに思ったイスラエル兵の素顔なのか」と
胸が潰れる思いがしたという。

●また、占領地のあちこちで、
銃弾で片目を奪われた赤ん坊や、
片腕をなくした少年を抱く母親、息子を投獄された母親、
子供や夫を撃ち殺された母親などに接するに従い、
1人の母親である彼女の中に抑えがたい怒りがこみ上げてきたという。

●帰国後、
ルーバンは一人の人間としての良心に突き動かされ、
活動を開始した。
傷ついたパレスチナ人の子供たちの医療活動を支援するため、
彼女は個人や団 体組織に寄金を呼びかけ、
「中東の子供たちのための同盟」を設立した。
この理事には下院議員や大学教授、
さらに作家や映画俳優らが名を連ねた。
この「中東の子供たちのための同盟」の共同推進者となった
ハワード・レビンもユダヤ人である。
彼はサンフランシスコ市のある新聞社の記者であった。
「中東の子供たちのための同盟」
設立の記者会見に取材にきたレビンは、
ルーバンの主張と行動に共鳴し、
ついに記者の職を投げ出し、
この運動に飛び込んだ。
「私はユダヤ人だが、
イスラエルのやり方、シオニズムの考え方にうんざりしていた。
私もユダヤ人の一人として、
何かをやらなければと思っていたところだっ たんです」
とレビンはルーバンに協力を申し出たのだった。

反シオニズムのデモに参加する
バーバラ・ルーバン
「私たちはイスラエルの占領に反対するユダヤ人」
と書かれたプラカードを持っている

●イスラエルの政策に反対する態度を明らかにしたルーバンに、
主流ユダヤ組織は噛み付いてきた。
イスラエルのために議会工作をする
イスラエル・ロビー団体「AIPAC」が、
サンフランシスコ市で、大統領候補や
その選挙運動員らを招いて開いた パーティーに参加したときのことだ。
演壇に立った候補者たちは、
自分がいかに議会でイスラエルを支持してきたかを訴えた。
ユダヤ人から選挙資金と票を引き 出すためである。一方、
いまアメリカが抱える大きな社会問題である
“ホームレス”の問題について語る者はほとんどいなかった。
ジェシー・ジャクソンの選挙運動員として
参加したルーバンはその席で、
社会の底辺で生きる民衆の救援のために
活動するジャクソンについて語り、
またパレスチナ人を抑圧するイスラエルの政策を非難した。
演壇から降りた彼女は、
親イスラエルのユダヤ人たちに囲まれた。
「ユダヤ人なのになぜイスラエルの政策に反対するのだ。
お前は“自己嫌悪するユダヤ人”だ!」と、
彼らは、ルーバンを口汚く罵ったのだった。

●ルーバンは語る。
「シオニストはイスラエルに対する不満や非難を、
ユダヤ人の間だけにとどめておきたいんです。
もし公にしたら、反ユダヤ主義が堰を切ったように吹き 出し、
それが全世界に蔓延すると、
イスラエルが破滅してしまうと考えてしまうんです。
しかし、ユダヤ人が自ら非難の声を上げなければ、
むしろイスラエルは さらに孤立し、
本当の反ユダヤ主義が世界中に広がってしまう。
これこそがもっと危険なことなんです。
ユダヤ人の沈黙がそれを許してしまう。
私が最も嫌悪す るのは、
ユダヤ組織が
『我々ユダヤ人はイスラエルを守らなくてはならない』
という名目で、
イスラエル非難の声を封じてしまうことなのです。」

世界中の反ユダヤ活動を監視する
「ADL」

●アメリカにおけるユダヤ団体は数百とある。
その中で「全米ライフル協会」と並ぶ
ワシントン最強のロビイストと言われるのが
「AIPAC」(アメリカ・イスラエル広報委員会)であり、
もう1つがこの「ADL」である。
「ADL」の正式名称は
「ユダヤ名誉毀損防止連盟」である。

●ADLは130年の歴史を持つユダヤ人国際結社
「ブナイ・ブリス」から豊かな財政支援を受けて生まれた団体で、
1913年に設立された。ADLは全米に25、
カナダに2つの地方事務所を持ち、
人事・コミュニケーション・教育・都市問題・社会問題・宗教及び
法律の各 分野の専門家を含む300人の職員を抱え、
各地のコミュニティに代表が何百人もいる。
ADLの初期の活動はもっぱら純然たる偏見や
人種的悪意を粉砕することに向けられていたが、
現在ではイスラエル支援を前面に押し出し、
シオニズムに対して批判する者たちや
反ユダヤ主義を唱える者たちへ圧力をかけている。

●1967年、イスラエル観光省が
1200人もの外人記者をイスラエルに招くことによって、
アメリカのアラブ空爆に対する
批判的なニュース見出しを訂正さ せようと決定したとき、
ADLはジャーナリストをリクルートしただけでなく、
補助金を出してツアーまで催した。
ADLは、一貫してその
「非営利機関」
の郵送料割引きの便宜を利用して、
1967年の6日戦争のときや、
それ以来あらゆる機会をとらえてやってきたように、
イスラエルの宣伝出版物をばらまいた。
ADLの元職員、ソール・E・ジョフツは
こうした同胞たちの不正活動を法廷に訴えた。
そしてほぼ4年間にわたって
弁 護士たちが判決を阻止しようと努力したにもかかわらず、
最高裁まで持ち込むことに成功した。
しかし、慈善用の非課税基金がイスラエル関連の政治的、
ないし はそれに近い性格のプロジェクトに転用されるという現状は
変わることがなかった。

●元CIA幹部であったビクター・マーケッティは、
ADLについて次のように語っている。
「アメリカにおけるADLの力はすごいものがある。
ADLはどのような人にでも
しかるべき地位や仕事を与えることが でき、
逆にそこから引きずり下ろすこともできる。
また企業をも成功させることも失敗させることも自在にできる。
今日のウォール街はADLや
いわゆるユダヤ 人新興勢力のなすがままになっている。
アメリカ国内に張り巡らされたユダヤ組織網を使うことで、
ADLは議会のメンバーを文字通り
当選させることもクビに することも
好きなようにできる力を持っている。
マスコミの人達も、
ADLとADLを支持する人々におびえながら仕事をしている。」


●シオニズムに反旗をひるがえしたユ
ダヤ人ジャーナリスト、
ポール・ゴールドスタインと
ジェフリー・スタインバーグは、
その著『ユダヤの告白』の中で
ADLについて包み隠さずその内情を述べている。


反シオニズムのユダヤ人ジャーナリスト
ポール・ゴールドスタインと
ジェフリー・スタインバーグ


「ユダヤ人が非難されるたびに
『反ユダヤ』と叫ぶような組織を作ることで、
ADLの考案者たちは
ユダヤ人に向けられた非難の内容を覆い隠し、
正当な非難と正真正銘の反ユダヤ主義との区別を
あいまいなものにしてしまおうとした。」
「ADLは、
今日アメリカやヨーロッパ、
ラテン・アメリカの全てのユダヤ人社会に
その触手を伸ばしている。
この組織 は多くの地方の弁護士会を組織することによって、
また州および連邦裁判所の判事の選任に
影響力を行使することによって、
アメリカの司法機構のほとんど全て に
多大な影響力を与え続けている。」

ワシントン最強の親イスラエル圧力団体
「AIPAC」


●イスラエルとアメリカは
特殊関係で結ばれているとよく言われる。
特殊関係というのは、
単なる同盟関係ではないという意味である。
アメリカのあらゆ る援助なくして
イスラエルの国家存立そのものが危ういし、
逆にイスラエルの意向を代弁する在米ユダヤ系市民は、
アメリカの大統領選挙の行方を
左右するほど の力さえ持ち続けてきた。
イスラエルは、そして中東問題は、
アメリカにとって国内問題であるといってよい。

●アメリカの全人口のうちユダヤ系は
3%足らずの約600万人とされる。
数字の上では大した勢力ではないが、
彼らは ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスといった
大都市の周辺に集中的に住み、
選挙にあたっては特定の候補者に集中豪雨的に投票する。
こうした地域は全米の政 治動向を左右するので、
そこからユダヤ票の威力が生まれてくるわけだ。
これはユダヤ票の「地すべり効果」とも呼ばれている。
ユダヤ系市民の政治意識は高く、
したがって彼らの投票率は他のエスニック集団に比べて格段に高い。
その団結力も強い。
それが「地すべり効果」を生むのである。

●在米ユダヤ勢力を政治的に指揮しているのは
、「アメリカ・イスラエル広報委員会(AIPAC)」である。
ワシントンの国会議事堂から
歩いて数分のところのビルに事務所をかまえている。
AIPACは、ワシントンで最強のロ ビー団体であり、
イスラエルに有利な動きを促進し、
不利な動きをつぶすため、
議会や政府に強力に働きかけることを任務としており、
実質的にはイスラエルの 「第2外務省」の役割を演じている。
(会員は現在5万人を超える)。

●もしアメリカの政治家が親アラブ的発言をしようものなら、
たちまちAIPACに反ユダヤ主義のレッテルを貼られ、
ナチス呼ばわりをされ、政治的生命を葬り去られてしまう。
1984年の選挙では
チャールズ・パーシー上院外交委員長がこの憂き目にあっており、
政治家に とってははなはだ恐ろしいお目付け役である。


AIPACに賛美の言葉を重ねる
エドワード・ケネディらアメリカの政治家たち


●ところで、軍事面に集中して
AIPACの別動隊的役割を果たしているのが、
「ユダヤ国家安全保障問題研究所(JINSA)」であり、
AIPACと比べるとその強力なタカ派色が目立つ。
「イスラエルこそ中東におけるアメリカの最も信頼できる同盟国にして
戦略的資産」との立場から、
アメリカとイスラエルの安全保障の一体性を訴えていて、
反アラブ強硬路線を仕掛け続けている。


「JINSA」のシンボルマーク

●アメリカでは大統領が外交政策決定過程で
非常に重要な役割を持っているが、
援助金は他の予算と同じように大統領が 提案して、
議会が修正し決定する権利を持っている。
アメリカの連邦議会が歴代の大統領よりも更に
イスラエルびいきであることは、
毎年大統領が申請するイスラエルへの援助金が、
議会によって2割近くも
増額されるのをみてもすぐわかることである。
それだけにとどまらず、
イスラエルへの経済援助金は、
全額を会計年度が始まったら
30日以内に送るよう全力を尽くせという但し書きをつけて、
議会は大統領に渡すのである。
これも「特別な関係」の一面である。

●ちなみに、アメリカの外国援助金の約半分が
イスラエルとエジプトの2国に支払われ、
残りの半分が百何十ヶ国に分配されている。
イスラエルへの支援金は膨大で、
計算によるとアメリカの納税者は1日当たり
イスラエルに1020万ドルも無償で与えていることになる。

人口1人当りアメリカからの援助の多い国 (1996年)

●かつて、イスラエル首相メナヘム・ベギンが
ホワイトハウスを訪ね、
レーガン大統領に巨額の援助を求めた。
「ご趣旨はわかるが、議会がうるさいので」
とレーガン大統領が口ごもったところ、ベギン首相は
「議会のほうは私におまかせ下さい」といって胸をたたいたという。
アメリカ議会に対するロビー工作で、
いかに自信満々かを物語るエピソードだ。
アメリカ政府は対イスラエル関係で新しい決定を下す時は、
駐米イスラエル大使に公式に伝える前に、
AIPAC首脳に相談や打診をすることもよくあるという。

●トーマス・ダインAIPAC代表は、
1986年4月、ワシントンでの
第27回AIPAC年次政策会議の席上、次のように語った。
「AIPACは、ホワイトハウスや議会だけでなく、
国務省、ペンタゴン、財務省、CIA、
更に商務省、農務省にまで
親イスラエル勢力を拡大させている。」


トーマス・ダインAIPAC代表

●また、アメリカにおいてユダヤ人たちが
どれほど政治的、経済的
さらにはマスコミにおいて力を持つようになったか、
ユダヤ人がユダヤ人自身を自画自賛する本が
アメリカのユダヤ出版社から出版された。
著者はユダヤ人ジャーナリストの
J・J・ゴールドバーグで、
その本の題名は
『ユダヤ・パワー』
〈アメリカ系ユダヤ人エスタブリッシュメントの内幕〉
というものである。
(もしも、このような内容の本を、
非ユダヤ人が執筆して出版したなら、
アメリカのユダヤ人たち、
特に「ADL」の強 烈な反発を受けるであろう。
そして、「反ユダヤ主義者」という烙印を押されてしまう。
しかし、
この本の著者はユダヤ人で、
出版社もユダヤ系だから、
彼らは 黙って見過ごしている)。

 
ユダヤ人ジャーナリストの
J・J・ゴールドバーグが書いた
『ユダヤ・パワー』


●この本の中で、
J・J・ゴールドバーグは、アメリカにおける
ユダヤ人たちがどのようにして
その名声を馳せ、かつ台 頭してきたか、
その歴史を物語ると同時に、
アメリカ国内で複雑に組織化されている
ユダヤ・コミュニティーによって
イスラエルはどれほどの恩恵を受けている のか、
そのことをも客観的に分析している。
この本の導入部分には次のようなことが書かれている。
「我々アメリカのユダヤ人は、
その歴史がアメリカに始まった
350年間のうちに飛躍的成長を遂げた。
特に、政治的な ことにおいてそうであろう。
もはや我々の敵はアメリカにおいて見い出すことはできない。
おそらく2000年前のユダヤ・ディアスポラ、
すなわち離散以来、
はじめての現象といえるのではないか。」

●更に、このユダヤ人ジャーナリストは誇らしげに言う。
「世界から多くの元首や政治家たちがアメリカにやって来る。
彼らの訪問はアメリカの政治家たちに会うためではなく、
国連を訪問するためである。彼らがアメリカを訪れた時、
必ず通らなければならないコースがある。
それがユダヤ・コミュニティー事務所、
そしてADL(ユダ ヤ名誉毀損防止連盟)
ニューヨーク事務所である。
ワシントンD.C.では多くの大使館が軒を連ねているが、
そのうちの13の主だった大使館の中には
『ユダヤ・デスク』が設けられ、
彼らは常にユダヤ・コミュニティーとの親密な関係を
維持しようとしているのだ。」

イスラエル・ロビーの圧力によって
議会を追われたアメリカ議員たち


■■チャールズ・パーシー議員の場合
●1967年に米・イリノイ州から選出された
有力な共和党の上院議員チャールズ・パーシーは、
1980年から上院外交委員会の委員長も務め、
その議員の地 位は不動のように思われた。
だが、そのパーシー議員が1984年、
イスラエル・ロビー団体「AIPAC」の圧力によって
アメリカ議会の議席を追われてし まった。
この選挙結果は、その後「パーシー現象」とさえ呼ばれ、
他の議員たちを震憾させる
イスラエル・ロビーの脅威のシンボルとなった。


チャールズ・パーシー

●パーシーのイスラエル・ロビーとの関係は
当初から悪かったわけではない。
イスラエル国債の購入や経済援助、
ソ連のユダヤ人の出国の支持など、
長 年、親イスラエル派としての議員経歴があったのだ。
このため1972年に再選されたときは、
70%という記録的なユダヤ人票を獲得している。
●このユダヤ人社会との“蜜月”にかげりが見え始めたのは、
1975年、
パーシー議員が中東の視察旅行から
帰った直後の発言からであった。
「イスラエルは和平交渉の機会を見逃してしまった。
アラファトPLO議長は他のリーダーたちに比べ
穏健派の指導者だ。
PLOがテロ行為を放棄し、
イ スラエルが安全で防衛可能な国境内で生存する権利を承認したら、
イスラエルはPLOと対話すべきだ」
というパーシーの発言から1週間後、
そのオフィスには 2200の電報と4000通の手紙が殺到した。
その95%がこの発言に反発するもので、
シカゴ市内外のユダヤ人たちから寄せられたものであった。
彼らは今後、選挙での支持をやめると脅迫した。
だ が、次の1978年の選挙では、
前回の選挙で絶大な支持を得た。
パーシーを、イスラエル・ロビーは
あえて追い落とすために動くことはしなかった。


●そのイスラエル・ロビーが1984年の選挙で
パーシー議員つぶしのために
全米に動員をかけるきっかけの一つとなったのが、
1981年、レーガン前大統領 が提出したサウジアラビアヘの
AWACS(空中警戒管制機)の売却問題であった。
イスラエルとそのロビーは、AWACSによって
イスラエル空軍の動きをサ ウジアラビアに調査されてしまうと、
猛反対した。
当時、外交委員会の委員長であったパーシーは、
アメリカの国益をイスラエルの国益より優先させ、
議会で売却賛成の投票をした。
「AWACSは攻撃用 ではなく、
防衛用の武器です。しかもアメリカが売らなくても、
サウジアラビアは英国かフランスから購入しようとしたでしょう」
とパーシーは、
当時、売却に 賛成した理由を語っている。
その判断の直前に外交委員会はイスラエルへ特使を送り、
イスラエル情報機関の担当官の意見を聞いている。
その担当官は、
「AWACSはイスラエルと アラブ諸国の軍事バランスに
影響を与えるものではない。
しかしアメリカがサウジアラビアと
軍事的な取り引きをやっているという
象徴になることが気に入らな いのだ」と答えた。
これに対しパーシーは、
「それなら、アメリカがイスラエルに
援助した戦車や戦闘機には、
サウジアラビアで生産された
ガソリンを使用すべきではない」
と反論し、
上院議員の同僚たちに
「我々はアメリカに忠誠を誓うのであって、
イスラエルに忠誠を誓うのではない」
と訴えた。

●パーシー議員がイスラエル・ロビーの
攻撃の標的にされたもう一つの大きな理由は、
1982年、イスラエルのレバノン侵攻時に
アメリカ製武器の使用を非難 したことである。
アメリカのイスラエルに対する武器売却の条件は、
その武器を防衛の目的でのみ用いるというものであった。
だが、レバノン侵攻では明らかにイスラエルは
この条約に違反していた。外交委員長として
イスラエルを訪問したパーシーは、
ベギン首相やシャロン国防相と会談し、
この違反に強く抗議した。
しかしイスラエル側は全く改めようとはしなかった。


●このようなパーシーの動きに、
イスラエル・ロビーは1984年の選挙で本格的に
反パーシー・キャンペーンに乗り出した。
トーマス・ダインAIPAC代表は
イリノイ州出身の下院議員ポール・サイモンを
パーシー議員の対立候補として担ぎ出した。
その選挙参謀と選挙資金責 任者の一人に、
元AIPAC代表モーリス・アミタイが就任、
反パーシー・キャンぺーンの戦略を専門的に研究させる学生を
数人専従として雇い、
またイリノイ 州の外から100人を超す学生たちを
サイモン候補の選挙運動のために動員した。
AIPACの戦略は、
パーシーを「反イスラエル」
「議会でのイスラエルの最大の敵」として描き出し、
攻撃する方法だった。
だが、AIPACの調査に よれば、
それまでの議会でのイスラエルに関する重要な決議では、
パーシーは89%のイスラエル支持の投票をしている。
一方、サイモンは99%という結果が 出た。
これでは大差はないため、
AIPACはその調査の基準を変えた。
小委員会での不透明な投票や署名のない決議にまで
その審査の対象を広げたのである。
この結果、パーシーのイスラエル支持率は
51%に落ち込んでしまった。
サイモン陣営にとってこれはユダヤ人から票と
選挙資金を獲得する絶好の材料となった。
この宣伝によって、
サイモン陣営はシカゴ市内外のユダヤ人から
莫大な選挙資金を獲得し、
その額は全選挙資金の40%の
301万ドルにまで及んだ。

●また南カルフォルニアの
ユダヤ人不動産業者マイケル・ゴーランドは、
個人の選挙寄金の制限額1000ドルを遥かに超える
120万ドルという大金でテレビ や新聞の広告を買い、
反パーシー・キャンペーンを展開した。
その新聞の全面広告には、
アラファトPLO議長の写真を掲載し、
「パーシーはこの男を“穏健 派”と呼んだ」
というタイトルをつけた。
このような悪質なキャンペーンに反発する
著名なユダヤ人数十人がパーシーを援護する
署名広告を出したが、
ほとんど 効果はなかった。

●果たして選挙の結果、
8万9000票の差でパーシーは敗れた。
1972年には70%も獲得したユダヤ人票は、
この選挙では35%までに落ち込んでしまっ た。
これはAWACS問題で
ユダヤ人の不評を買ったレーガン大統領が、
1984年の大統領選で獲得した得票率と同じという
低い支持率であった。
ダインAIPAC代表は、
「全米のユダヤ人がパーシーを追い落とすために集結した。
今や政治家、公の立場にある人々、
またはそれを志す人々は、
私たちユダヤ人社会の“メッセージ”を受け取った」
と豪語した。


■■ポール・マクロスキー議員の場合


●親イスラエル派だった
ポール・マクロスキー元下院議員が、
イスラエルの政策に疑問を抱き始めたのは、
「一国以上の正規軍に攻撃されたときのみ使用でき る」
というアメリカ政府との合意を無視して、
1978年にイスラエルがアメリカ製の
クラスター爆弾を南レバノンで
一般市民に対して用いたときであった。
1982年のレバノン侵攻でも
イスラエルは再びこの協定を破った。
「トルコがキプロスでこの協定を破ったとき、
アメリカ政府は武器援助を3年間停止した。
しかしイスラエルの場合にはアメリカ政府は停止しなかった。
イスラエル・ロビーの力が余りに強くて、
政府や議員たちはユダヤ人社会を
敵に回すことを恐れたためです。
私はこれを見逃すことができなかった。」
イスラエルの政策に対して
批判的になった理由をマクロスキーはそう説明する。

ポール・マクロスキー

●その後、マクロスキー議員は
アメリカの多額なイスラエル援助を
修正すべきであると議会で主張した。
その内容は「イスラエル占領地である
ヨルダン川 西岸での
イスラエル人による入植地の建設を中止させる。
もしイスラエルが同意しなければ、
入植地建設のために使われると想定されている
1億5000万ドル のイスラエル援助を削減すべきだ」
というものであった。
だが他の議員たちは、
その修正案への投票を迫られることを恐れて、
その案の提出をマクロスキー議員に
思いとどまるように説得しようとした。
アメリカ の海外援助の4分の1という
高い率のイスラエル援助を快く思わない議員たちも、
これに反対していると記録されることは避けたがる。
AIPACを恐れるから だ。
しかしマクロスキー議員はその“タブー”を敢えて破った。
更にマクロスキーは『ロサンゼルス・タイムズ』紙上で、
「AIPACがあまりにも強い影響 力を持ち、
中東の真の平和の障害になっている。
一方、アメリカとイスラエルの国益は異なるにもかかわらず、
在米ユダヤ人社会が議会に
イスラエルを支持する よう強要している」と
イスラエル・ロビーを公に非難した。


●このようなマクロスキー議員の言動は、
間もなく在米ユダヤ人社会のマクロスキー離れや
攻撃となって跳ね返り、その反発は選挙にも
直接影響を及ぼすことに なった。
地元の新聞も「マクロスキー議員は
イスラエル・ロビーがアメリカの国益を破壊するのに
懸命になっていると非難中傷している」
と強い調子で彼を批判 した。
1982年、
マクロスキーが共和党からカルフォルニア州の
上院議員候補に推薦されたとき、
イスラエル・ロビーは“マクロスキー降ろし”に
在米ユダヤ 人社会を動員したのである。
果たして選挙結果は、トップに10%の差で落選した。
『ワシントン・ポスト』はこの選挙結果を
「ユダヤ人の選挙運動がマクロス キーを破った」
と結論づけている。

●ユダヤ人社会のマクロスキーへの攻撃の手は、
彼が議会を去ったあとも止むことはなかった。
マクロスキーは大学の同窓生の法律事務所で
弁護士の仕事に戻ろ うとした。
だが、この事務所の最大の取引先である会社の社長は、
もしマクロスキーを雇うつもりなら取引先を
他の法律事務所に移すと通達してきた。
「イスラ エルに対するマクロスキーの見解のため」
という理由だった。
友人に迷惑がかかることを懸念して、
彼はその法律事務所での仕事を辞退した。
今度はサンフランシスコ市のある
法律事務所から弁護士として招聘された。
しかし彼に対する圧力はそこまでついてまわった。
この事務所の取引先のある 銀行の主要株主だと名乗る人物が、
「PLOとその議長アラファトを支持し、
反ユダヤ主義者として知られる人物を雇うことに抗議して、
次の株主総会で
取引法 律事務所を変えることを提案するつもりだ」
と伝えてきた。
だが、事務所側はこれを無視した。
結局、その銀行は取引先として残った。


●ユダヤ組織
「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」の追及は、
マクロスキーの私生活にまで及んだ。
ADLは彼の下院議員時代の発言や行動を記録したメモ と、
彼が公の場で発言する場合に反撃するガイドブックを
全米のADL支部に配布した。
またその妨害の手は大学にまで伸びた。
スタンフォード大学でアメリカ 下院議会について講義を依頼され、
これを引き受けたマクロスキーに、
ユダヤ人学生組織「ヒレル」は猛反対したのだ。
この圧力に主催者の学生委員会側は、
講 義に呼ぶゲストの選択の自由や
その報酬について様々な制限を加えてきた。
これに対しマクロスキーは、
「これは一種の反ユダヤ主義の裏返しだ。
我々はこの人物に
スタンフォード大学で教えることを望まない、
この教材を使って欲しくないと圧力をかけているのは
ユダヤ人社会なのだ」と強く反発した。

■■ポール・フィンドリー議員の場合
●22年間、下院議員を務めてきた
ポール・フィンドリーがAIPACの標的となったのは、
彼が1978年にアラファトPLO議長と会談して以来、
パレスチナ人の自決権にも理解を示す態度をとったことによる。
イランのアメリカ人人質解放のために、
秘密裏にアラファトの援助を要請する
アメリカ政府の求めに応じて、
PLOとの仲介役も果たした。


ポール・フィンドリー

●イスラエル・ロビーのフィンドリー潰しは
1980年の選挙から始まった。
対立候補の選挙資金を集めるため、
AIPACは、
「フィンドリーはアメリカ議会史上、
最悪の敵で、反ユダヤ主義者」と
全米のユダヤ系新聞に広告で訴え、
「この議員を破るために寄金を」と呼びかけた。
またフィンドリーの講演や選挙演説にも、
AIPACが動員したと思われる運動員たちが、
演説中に「PLO支持者!」と罵声を浴びせ妨害した。
シカゴ での外交問題の講演では、
ある男が「この会場に爆弾が仕掛けられている!」
と叫んだため
会場は大混乱に陥り、
講演が中止されてしまったこともある。

●親友やこれまでの支持者たちも
フィンドリーから遠ざかっていった。
友人で彼の支持者であった元連邦準備委員会の委員長は、
選挙のための推薦状を依頼したフィンドリーに、
「君のPLOに対する見解のために、
それはできない」
と通告してきた。
同じ共和党の大物政治家たちも、
フィンドリーの選挙応援を躊躇するようになった。
大統領候補となったロナルド・レーガンが
フィンドリーの地元を訪問 したとき、
大統領選挙対策本部が「フィンドリーと親しくすると、
ユダヤ人の多いニューヨーク市での票を失ってしまう」
と警告したため、
レーガン候補の訪問中も、
その運動員たちはフィンドリーをレーガンに近づけなかった。

●様々な妨害にもかかわらず、
1980年の選挙で辛くも再選を果たした
フィンドリーも、2年後の選挙では、
さらに強化されたAIPACの
反フィンドリー・ キャンぺ一ンの影響で、
遂に千数百票という小差で敗れてしまった。
このときもダインAIPAC代表は、
そのフィンドリーの敗北が
AIPACの力によること を誇示した。


●自らの体験で、アメリカ議会における
イスラエル・ロビーの強大な影響力を知ったフィンドリーは、
その後、このAIPACの実態を丸2年がかりで取材・調 査し、
著書『彼らは敢えて証言する』を出版した。
その本はワシントンを中心に大きな反響を呼び、
9週間連続で『ワシントン・ポスト』紙の
ベストセラーのリ ストに挙げられた。

ポール・フィンドリーの著書
『彼らは敢えて証言する』

■■ウィリアム・フルブライト議員の場合

●日本でもおなじみのウィリアム・フルブライト。
彼は戦後日本がまだ貧しかったときに、
日本の青年たちのために
アメリカ留学の基金をつくった
上院議員として有名である。


ウィリアム・フルブライト

●しかし今、フルブライトは議員ではない。
年を重ねたから辞めたのではなく、
イスラエルにとって不利な発言をしたから、
AIPACによって落とされた。
フルブライトは、アメリカ外交はアラブ諸国と
イスラエルとのバランスの上に立たなければならない、
という意味の発言をした。
それがAIPACの激しい攻撃を受けたのである。

アメリカ大統領選挙とユダヤ票

●「ユダヤ人票がアメリカ大統領選挙の結果を左右する」
──在米ユダヤ人社会の絶大な政治力を象徴する例として、
しばしば語られることの一つである。
確かに、これを裏付けるような実例を、
過去のアメリカ大統領選挙の歴史に幾つか見ることができる。

●その典型的な一例が、
1948年の大統領選挙である。
その前年、国連で決議される予定の
パレスチナ分割案(パレスチナを分割して、
ユダヤ国家とパレスチナ人国家を創るという案)に対し、
当時のトルーマ ン大統領は、アラブ諸国、
とりわけアメリカが石油利権を持つサウジアラビアとの関係を重視し、
パレスチナでのユダヤ国家建設に反対する意向を表明してい た。
これに対し、在米ユダヤ人社会は強く反発し、
「1948年の大統領選挙では、
トルーマンはユダヤ人票を失うだろう」と警告した。
大きな票田を持つ都市に集中するユダヤ人の票は、
当時、戦局不利が伝えられていたトルーマンにとって
勝敗を左右する重要な要素だった。
このままでは共和党候補に敗北する、
という危機感を抱いたトルーマンは、
前言を翻し、国連決議案の支持に回った。
これによって、翌年の大統領選挙では
75%のユダヤ票を獲得し、
きわどい差で勝利した。
(ちなみに、トルーマンは父方がユダヤ系である)。


ユダヤ票欲しさに、
パレスチナ分割案を
支持することにした
トルーマン大統領


●1976年の大統領選挙では、
任期中に
「アラブ人に対する強硬姿勢を改めなければ、
経済援助を削減する」と
イスラエルに警告したフォード大統領 は、
ユダヤ人の支持を失い、対立候補のカーター大統領が
68%のユダヤ人票を獲得した。
これはカーター勝利の一要因といわれている。
そのカーター大統領も、
イスラエルとエジプトとの和平交渉の成功で
一時ユダヤ人に高い評価を得たが、
その後、イスラエル・アラブ紛争の総合的な解決 のために
ソ連との交渉に乗り出そうとしたこと、
またイスラエルの入植地政策を非難する
国連決議に賛成票を投じたことなどによって、
ユダヤ人の反発を買っ た。
再選を目指す1980年の選挙では、
ユダヤ人票の40%がレーガン氏に流れたといわれる。

●1988年の大統領選挙でも、ユダヤ人票獲得のために、
ブッシュ、デュカキス両候補は、
PLOがイスラエルを承認し「テロ」を放棄しない限り
交渉しない こと、
またパレスチナ国家は認めないことなどを明言し、
親イスラエルの姿勢を在米ユダヤ人社会に訴え続けた。
また、『ニューヨーク・タイムズ』紙や
『ロサ ンゼルス・タイムズ』紙など有力紙や、
ユダヤ系の新聞紙上にユダヤ人向けの全面広告を掲載し、
激しい“ユダヤ人票獲得合戦”を繰り広げた。
例えば、『ニューヨーク・タイムズ』紙上でデュカキス陣営は、
1981年に、イスラエルが猛反対した
サウジアラビアヘのAWACS(空中警戒管制 機)売却を
ブッシュ候補が支持したこと、
1981年のイスラエル空軍による
イラクの原子炉爆撃に対し
アメリカ政府の制裁を主張したことなどを取り上げ、
ブッシュがいかに
イスラエルの利害に反する候補であるかを強調した。
これに対しブッシュ陣営は、
パレスチナ人の自決権を主張する
ジェシー・ジャクソンが民主党内で大きな影響力を持ち、
イスラエルにとって危険であると 強調することによって、
ユダヤ人の民主党離れを促す、といった具合である。
それはまさに、相手候補より
いかに熱心な“親イスラエル”であるかを競いあう
“ユダヤ人の歓心買い競争”である。

●一方、
「反ユダヤ主義」「反イスラエル」と
攻撃されかねない
自派の言動に関しては両陣営とも敏速に対処して、
「被害」を最小限に食い止めるために全力を注いだ。
選挙まで2ヶ月と迫った1988年9月初旬、
ブッシュ陣営は在米ユダヤ人社会から
「反ユダヤ主義者」と烙印を押された
選挙運動組織の幹部ら8人を即 座に解雇した。
その幹部らが1971年のニクソン政権時代に労働統計局で働く
ユダヤ人のリスト作りをしたことが
『ワシントン・ポスト』紙に報道されたた め、
ユダヤ人票への影響を恐れて、
ただちに処分したのである。
一方、民主党側では、
7月の党大会でジャクソンの支持者によって綱領案として
提案されたパレスチナ人の自決権を求める案は、
デュカキス陣営の強い反 対によって、
投票にはかけられなかった。これを強行すれば、
ユダヤ人の影響力の強い
民主党の選挙運動は分解しかねなかったからだ。

最後
昨年の頭に投稿した
http://nxs.jp/2013/02/26/no-093

にある映像は素晴らしいので是非!

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Tumblr