NO.116 2015 新年の挨拶 《イクストランへの旅》

Jan 14, 2015

またかなりの時間が空いてしまいましたが、、
お気づきの方もいるかもしれませんが、、
ダイブ忙しいです。。。

ともかく
明けましておめでとうございます

毎月リリースというマゾかと自分でも思う様な事を
言いだしてしまった手前、
この1年は制作により、追われること必至でございます。

まずはどうにか
1弾目が仕上がり、先日発売されました。
ホっ

などと悠長な事は言っていられず、
来月,またその次の。。。
と、
この1年は完全に予定を遂行出来るかを自分に課し、
それに挑みます!!!

ともかく
SHADOW DANCEのビデオ
は観て頂けたででしょうか?

PVという、プロモーションの為というよりは
この映像作品と連動した形で音も仕上がっています。
なので音と絵は、そしてダンサー達は共に関わり、
影響しあい、作品化されました。

そして年末のMOVEMENTS ONENESS MEETINGでは
実写版?SHADOW DANCEが披露されました。

光と闇

その中に浮かぶ命の動き。

様々な人が関わって現実化した作品なので
感慨ひとしおです。

ちなみに
レコードにおける裏面は
Rise Againという曲ではOKIさんの
トンコリとエジプトで録音したミズマールという笛が
何とも言えないトランス感を出しています。
そして躍動するリズムはクルドの太鼓ダフと
キューバのティンパレスという妙な組み合わせは
新しい様な古い様な。。
とにかくこの曲も去年から
幾度とDJ時にプレイしていたので
もはやお馴染みの曲ですし、
やっと卒業した我が子を観る様に
これまた感慨ひとしおです。

実際に30曲近くをこの3年で創っていたので、
まだまだ隠し子が沢山輩出されます笑

楽しみにしてもらえたら嬉しいです。

ちなみに2/11に発売予定の曲も今大詰めです。

またもやNYの奇才、天才、変態?の
Yas Inoueが片面のMIXを担当。

自分自体2001年9/11時にちょうどNew Yorkに
移住しようとしていたくらい思い入れがある場所ですし、
そこでバリバリダンスミュージックを創造しまくる
同い年であるYasには運命的なものを感じます。

先日中野駅前で!開催した久々にゆっくり話した
THE BLUE HERBのBOSSと話すと(彼もYasと友達)
『奴は俺とMoochyの仕事を足した量よりも仕事してるぜ!』
と言っていたので、よっぽどなのでしょう。。。
(BOSSも必殺仕事人なので、、、)
知らなかった。。
ただの気の合う奴だと軽い気持ちで頼んだら
ノリノリで参加してくれました。感謝。

運命的と言えば
20代前半に多大な影響を与えられた友人、
ソウルメイト、マドモワゼル朱鷺。
朱鷺ちゃんから誕生日にもらったカスタネダの本からの
イメージが第二弾目の裏面の曲
Ixtlanで次元を超えて蘇ります。

朱鷺ちゃんの話しは沢山あるのですが、
こんな閉鎖的な笑コラムでも、
危なくて書けない様な話しばかりですが、
本当に感謝しています。

最近は、言葉にするのが正直、進みません。

単純に忙しいのはありますが、
以前は書きたい衝動が溢れていたのですが、
現在の心境は文字にするのはノらないのです。

より音に”意味”や”意思”を込めて、
そこから他者に伝えたいという想いは
強くなっています。

だからこそ、この一連の作品群は
想いの結晶です。

もはや言葉にならない想いが炸裂していますし、
ネットなどの情報は
完全なプロパガンダばかりになってしまい、
真実なんて、3%くらいしかないのでは、
と思います。

特にイスラム関係の報道は、
ほとんどが、ある一定の集団からのソースなので
鵜呑みにしたら思うつぼです。

自分は相変わらず、自分の宗教観というか、
思想を深めて行っているつもりですが、
ある程度、深く、暗い現実、歴史に
飛び込み、飲み込み、認識しないと
現在起こっている現象は
理解しづらいと思います。

自分自体も完全に理解しているわけではありませんが、
このコラムをある程度細かく読んでくれた方は、
言わんとしている事は分かってくれると思います。

現実は小説より奇なり

まさしくです。

なぜこういう事態になっているかの答は
過去にあります。
それぞれ掘り下げて欲しいですし、
会って、
また情報交換出来たら嬉しいと思います。

ノらないとか言っておいて
なんだかんだ書きまくっていますが、、笑

ともかく
昨年は年末の
ONENESS  MEETINGそして弁天ONENESS DANCE
まで様々な方にお世話になりました。

この場を借りて、改めて感謝です。

ありがとうございます。

本年は、まさしく攻めの年にしたいと思います。

宜しくお願いします。

またリアル新年=旧正月までには
投稿したいと思います!


السلام عليكم

Salam Aleikum

追伸

前述したイクストランの抜粋分を
時間の車輪から拝借

《イクストランへの旅》からの引用文

何かを自分の生活から
いつでも瞬く間に絶つことができることに
我々は滅多に気づかない。

写真を撮ったりテープに記録することに
気をもむべきではない。
それらは平静な生活にとって余分なものである。
いつも減退している精神について気をもむべ きである。

戦士に履歴は必要ではない。
ある日、それがもはや不必要だと気づき、
彼はそれを捨てる。

履歴は自分のすることを
両親や親戚や友だちに言うことによって
いつも更新しなければならない。
一方、履歴を持たない戦士にとって、
説明は必要ない。
誰も 彼の行動に腹を立てたり幻滅したりしない。
そして、とりわけ、
誰も彼らの考えで彼を束縛することはない。

何もかもが不確実であれば、
我々はつま先立ちを続けるように、
いつも油断せずにいる。
何でも知っているかのように振る舞うより、
どのヤブにウサギが隠れ ているか知らない方が
ずっとエキサイティングである。

自分が世界中で一番大事なものだと思う限り、
まわりの世界を本当に理解することはできない。
彼は目隠しされた馬のようなものである。
あらゆるものから切 り離されて
自分自身しか見えないのである。

死は我々の永遠の仲間である。
それはいつでも我々の左側、
腕を伸ばせば届くような所にいる。
死は戦士の唯一分別あるアドバイザーである。
何もかもうまく いかなくて、
今にもまいってしまいそうだと感じたら、
彼は死の方を向いてそうなのかどうか聞くことがきる。
触れないものは重要ではないので、
死は彼が間 違っていると言うだろう。
彼の死は、
『私はあなたにまだ触れていない』と言うだろう。

たとえどんな時でも、戦士が何かしようと決めたら、
とことんやらなければならないが、
自分のすることに責任を持たなければならない。
たとえ何をするにしても、
まず自分がなぜそれをするのか知り、
それから、それを疑ったり自責の念を持たずに
どんどん行動しなければならない。

死が狩人であるような世界では、
後悔したり疑ったりする時間はまったくない。
決断のための時間があるだけである。
どんな決断かは問題ではない。
どんなこ とでも他のことより重大だとか
そうでないとかいうことはない。
死が狩人である世界では、
決断に大小などない。
避けられない死の面前で
戦士がする決断しかな い。

戦士は道のちょうど曲がり角で
手近にいることと
手近にいないことを学ばなければならない。
隠れていることを誰もが知っている時に
隠れることが無益である ように、
いつも知らず知らずのうちに手近にいることは
戦士にとって無益である。

戦士にとって、近づき難くなることは
まわりの世界に控えめに触れることである。
そしてとりわけ、
自分自身や他人をへとへとに
疲れさせることを慎重に避け る。
彼は、人々、特に愛する人々を、
何のためでもないのにねじまがるまで
利用したり強制したりしない。

人がいったんくよくよしたら、
捨てばちになって何にでもしがみつく。
そして、しがみつけば必ず自分が消耗したり、
しがみついた人や物を消耗させる。
一 方、戦士・狩人は、
自分のワナに獲物をおびき寄せられることを知っている。
だから、くよくよしない。
くよくよすることは近づきやすくなること、
知らず知ら ずのうちに近づきやすくなることである。

戦士・狩人は自分の世界を親密に扱うが、
それでいて、その同じ世界にとって彼は近付き難い。
彼はそれに軽く触れ、
必要なだけ留まり、
それから気づくこと もできないほどの速さで去って行く。

戦士・狩人であるには
獲物に罠を仕掛けるだけではいけない。
戦士・狩人が獲物を捕らえるのは、
罠を仕掛けたとか、
獲物の習性を知っているからではなく、
彼自身が型にはまっていないからである。
これが彼の強みである。
彼は、彼の追い掛ける決まった型にはまり
予測できる癖のある動物とは全く違う。
彼は自由 で、流動的で、予想もつかない。

普通の人にとって世界が不気味なのは、
もしその人がそれに飽き飽きしていなければ、
その人がそれと争っているからである。
戦士にとって世界が不気味なの は、
それが素晴らしく、荘厳で、神秘的で、
底知れないものだからである。
戦士は、この驚くべき世界、
この驚くべき時間に、
ここにいるということについて
責 任を持たなければならない。

この世界のここにいるのはほんの短い間であり、
実際、そのすべて不思議を見るには短すぎるのだから、
戦士はどのような行動でも
しっかり考えることを学ば なければならない。

行為には力がある。
特に、戦士がそれらの行為が
彼の最後の戦いであると知っている時には。
自分の行為が、
地上での最後の戦いになるかもしれないことを
十 分承知して行動すると、
そこには焼き尽くすほどの幸福感がある。

戦士は自分と自分の死との絆に
注意の焦点を合わせなければならない。
自責とか悲しみとか悩みとかを感じずに、
彼は自分には時間がないという事実に着目 し、
自分の行動をそれに応じて流動させなければならない。
彼は自分のどの行動も地上での
最後の戦いとしなければならない。
それらの条件が整ってはじめて、
彼の行動はその正当な力を持つ。
さもなければ、
生きている限り、愚か者の行動でしかない。

戦士・狩人は、自分の死が自分を待っていて、
自分が今まさに実行している行為が
地上での最後の戦いであるのも
もっともであることを知っている。
彼がそれ を戦いと呼ぶのは、
それが苦闘であるからである。
ほとんどの人は苦闘も考えもなしに次から次へと行動する。
戦士・狩人は、反対に、
あらゆる行為をしっかり 見極める。
そして、自分の死のことを深く知っているので、
あらゆる行為が自分の最後の戦いであるかのように、
慎重にことを進めていく。
戦士・狩人が仲間に 対して持っている有利さに
気づかないのは愚か者だけである。
戦士・狩人は自分の最後の戦いに当然の敬意を払う。
地上での最後の行為が
自分のベストになるべ きなのは自然なことである。
それは愉快なやり方である。
それは恐怖の刃を鈍くする。

戦士は力を狩る無欠の狩人である。
彼は酔っ払うことも発狂することもないし、
はったりをかけたり、自分に嘘をついたり、
間違った行動をしたりする時間も 性癖もない。
そのための賭け金は高すぎる。賭け金とは、
長い間締め付け、
完璧にしてきた
自分のきちんと整えられた生活のことである。
彼は、愚かな計算違い や、
何かを他の何かと間違えて、
それを放り出すようなことはしない。

人は、どんな人でも、
人間の運命
- 喜び、苦痛、悲しみそして苦闘 -
を受けるに足るものである。
彼が戦士として行動する限り
その行動の質は重要で はない。
もし彼の精神がゆがめられているならば、
それ以上に価値のあることなど
一生のうちには何もないのだから、
彼は単にそれを直し、清め、
完全にすればよいのである。
精神を直さないことは死を求めることであり、
死は何もお構いなしに我々を襲ってくるものだから、
それは無を求めるのと同じである。
完璧な戦士の精 神を求めることは、
人間としてたった一つやる価値のあることである。

この世で最もつらいことは、
戦士の気持ちをこの身に引き受けることである。
誰かがいつも我々に何かをしていると思い込んで、
悲しんだり、不平を言った り、
そうするのが当然と感じたりするのは
意味のないことである。
誰も誰にも何もしない、
戦士に対してはなおさらである。

戦士は狩人である。
彼はすべてのことを計算する。
それがコントロールである。
いったん計算が終われば、彼は行動する。
なるようにする。それが放棄であ る。
戦士は風になすがままの葉っぱではない。
誰も彼に強いることはできないし、
誰も彼の意に反したり、
彼の判断に反して何かをさせることはできない。
戦士 は生き残るよう調律され、
あらゆる可能性の中で最上の仕方で生き残る。

戦士は人間、つまらない人間にすぎない。
彼は自分の死の計画を変えることはできない。
しかし、
猛烈な苦闘の後に力を蓄えた彼の無欠の精神は、
少しの間、 彼が自分の力を思い出して
喜びにひたるぐらいの間、死を止めることができる。
それは、無欠の精神を持つ者にだけ
死が持っているジェスチャーであると言え る。

どう育ったかは問題ではない。
何をするにしても、
その方法を決めるのは個人的な力である。
人間はその個人的な力の総和にすぎない。
そして、その総和が人 間の生き方や死に方を決める。

個人的な力は感覚である。
幸運のようなものである。
あるいは、気分と呼ぶこともできる。
個人的な力は生涯にわたる苦闘によって
得られるものである。

実際には何も知らない時でも、
戦士はまるで自分が何をやっているのか
知っているかのように行動する。

自分の行動を卑しいとか、
醜いとか、邪悪だとか言って切り離すことは、
自分自身に不当な重要性を置くことだから、
戦士は自分のしたことを自分で責めな い。
そのこつは何を強調するかということにある。
自分が自分をみじめにするし、
自分が自分を強くもする。
仕事量は同じである。

我々が生まれた時から、
人々が世界はかくかくしかじかであると我々に話す。
そして、我々は、当然のように、
世界が人々の話したとおりであることを
受け入 れる選択しかしない。

戦士の技法は、
人間であることの恐ろしさと、
人間であることの素晴らしさのバランスをとることである。











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