NO.129 evil = live?

Oct 31, 2016


evil = live?

18歳の時、evil powers meというバンド名を思いついたのはToday is the dayというバンドの曲中It powers meと歌っているのを空耳で聞き間違えて、気に入ったのがきっかけでしたが、
当時既にいわゆる人間自体の中に眠る邪悪性、また、いわゆる社会の中で公然に行われる大量虐殺=戦争、それを正当化する大義を作り出し、弄ぶ政治家や企業の重役達が隠し持つ邪悪性に苛立ちを、悲しみを10代で勝手に感じてまして、、

その邪悪性を自己憎悪に内包させて爆発させる、それは逆説的捉えれば、生きるとは、その邪悪性と向き合い、闘うことだろうと思っていました。

いま、いろいろな体験を経て40を過ぎて想う、人間や社会に対する認識は、当時とは少し違います。

しかし15の息子を持つ身としては(苦笑)、我が分身として、またも対峙しなければいけない問題なのかと、以前親父から届いてあまり読み切れていなかったこの本を読むことで、連鎖というかカルマ的なものを痛感しております。

決して、連鎖、カルマは悪い意味だけではありませんが、この本に書かれている様に、やはり自分がそこ、自身に向き合うことでしか、自分以外の他者や、ましてや社会などという曖昧なものを変えようなどと思うことは、茶番にしかならないのでは?と近年思っています。
(ちなみに「ブッダとそのダンマ」という本を昔読みカルマに対しては、仏陀=シッタルダのオリジナル発想的な、あまり気にすべきことではなく、因果応報という現実問題に、より着目すべきだと個人的には考えています、ハイ)

この文章を紹介するのは、啓蒙的な意味ではなく、自己葛藤の吐露だと思ってもらったら幸いです。
逆にこの文章を自分には無関係な事だと思ってしまったら末期かもしれません笑。

下記抜粋

うそというものは混乱を引き起こすものである。
邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺瞞の層を
積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。

彼らの過ちは、彼らが生命を憎んでいることよりも、むしろ、自分自身の罪深い部分を憎んでいないというところにある。

「イメージ」「外見」「外向け」といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解するうえで重要なものとなる。彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。
彼らにとって「善」とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている。
これはとりもなおさず虚偽であり、私が彼らを「虚偽の人々」と呼ぶゆえんもここにある。

邪悪性の基本的要素となっているのは、罪悪や不完全性に対する意識の欠如ではなく、そうした意識に耐えようとしないことである。
彼らは、自身の邪悪性を自覚していると同時に、そうした自覚から逃れようと必死の努力をする。

彼ら特有の良心の陰にある自分の邪悪性の証拠となるものを消し去ることに、絶えず専念しているのである。
われわれが邪悪になるのは、自分自身に対して隠しごとをすることによってである。邪悪な人たちの悪行は直接に行われるものではなく、この隠しごとをする過程の一部として間接的に行われるものである。

人間の悪の心理学的問題の中核を成しているのが、ある種のナルシズムである。

エリッヒ・ヒロムが「悪性のナルシズム」と呼んでいる、ある種の病的ナルシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意思である。

個人の集まりである集団が、「集団凝集性」と呼ばれるものによって個体として行動する時、個々の構成員の結束と調和を維持しようとする大きな力が働く。
この集団凝集性として最も大きな力を持っているのが、おそらく集団ナルシズムだと思われる。
この集団ナルシズムは、その最も単純かつ最も心地よいかたちとして、集団のプライドというかたちで表出される。

あまり感心しないことではあるが、現実に広く見られる集団ナルシズムのかたちが、「敵をつくる」こと、すなわち「外集団」に対して憎しみを抱くことである。

これは、初めて集団を組むことを学んだ子供たちにも自然に発生するものである。

人間の集団の行動は人間の個人のそれに比べて、想像以上に現実的かつ未成熟なレベルにある。

集団の中の個人の役割が専門化しているときには、常に個人の”道徳的責任”が集団の他の部分に転嫁される可能性が高い。

そうしたかたちで個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化され、良心が存在しないも同然の状態になる。

いかなる集団といえども、不可避的に、良心を欠いた邪悪なものになる可能性を持っているものであり、結局は、個々の人間が、それぞれ自分の属している集団、組織、全体の行動に直接責任を持つ時代が来るのを待つ以外に道はない。

われわれ人間は、自分自身の社会的意義を意識するようにつくられている。自分が望まれている存在、役に立つ存在であるという意識は、何もまして喜ばしいものである。

その反対に、自分が役に立たない、望まれてもいない存在だという意識ほど、人を絶望におとしいれるものはない。

人間のものの考え方には一種の慣性が伴うものである。いったんある考え方が行動に移されると、それに対立するいかなる証拠を突き詰められようと、その行動の動きを止めようとしない。
ものの考え方を変えることには相当の努力と苦しみが伴う。
これにはまず、自己不信と自己批判の姿勢を絶えず維持し続けることが必要であり、あるいは、自分がこれまで正しいと信じてきたことが結局は正しくなかった、という苦痛を伴った認識を持つことを要求される。
そのあとには混乱が生じる。
これは実に不快な混乱である。
もはや、正しいことと間違ったことの判断、いずれの方向に進むべきかの判断が、自分にはつかないように思われる。
しかし、そうした状態こそ、偏見のない開かれた心の状態であり、したがって、学習と成長のときである。
混乱と困惑の流砂のなかからこそ、新たな、より優れたものの見方へと飛躍することができるのである。

自分自身を自分自身たらしめているものが、ものの考え方である。
もし誰かが私のものの考え方に批判を加えるならば、私はそれを、私自身に対する批判と考えるはずである。
私の意見が間違っていることが分かれば私自身が間違っていたことになる。
私の抱いている完全性という自己像が、砕け散ってしまうのである。
旧弊化し、すり減ってしまった考えにしがみつく点では個人も国家も同じであるが、これは、単にその考えを改めるには努力を要するからというだけでなく、ナ ルシズムに囚われている個人や国家には、自分の考えや、ものの見方が間違っているかもしれないと想像することすら出来ないからである。
われわれは表面的には、自分が絶対に正しいなどとは言わないようにしているが、心の奥底では、とくに自分が成功し、権力を持っていると思われる時には、自分は常に正しいと考えてしまう。

通常、われわれは、証拠を突き付けられたときには、ナルシズムが傷つくことにも耐え、自分の考えを改める必要性を認め、自分のものの見方を修正する。
しかし、ある種の個人に見られるものと同様に、国家全体のナルシズムもまた、ときとして通常の限界を超えてしまうときがある。
そうしたことが起こると国家は、証拠に照らして自己の考えなりを修正する代わりに、その証拠を隠蔽しようとしてかかる。

われわれの凶悪性はふとした出来心である。
われわれが凶悪になるのは、まさしく、自分自身に対する理解力をわれわれが持っていないからに他ならない。ここでいう「理解力」とは知識のことである。

国民としてのわれわれは、あまりにも怠情(ダルジョウ)なため学ぶことをせず、またあまりにも傲慢(ゴウマン)なために学ぶ必要すら意識していなかったのである。
われわれの怠情とナルシズムが相互に助長しあい、その結果われわれは、それがなにを意味するのかすら考えもせずに、流血をもって自分達の意志を外国人に押し付けるのである。
かくして、「キリスト教国」が凶悪な国になったのである。
これは過去において多くの国で起こり、将来においてもまた、多くの国で起こりうることである。

この集団の悪は、世界の反対側で起こったというだけのものではない。今現在もなお、地球上のいたるところで起こっていることである。

われわれは組織の時代に生きている。1世紀前の人類の大半は自営の仕事についていた。

今日では、ごく少数の人を除いて、自分の労働生活を、組織や企業に提供しており。また、この組織や企業はますます大きなものになっている。
集団の中では責任が分散され、大規模集団の中では事実上責任が消滅してしまうこともある。

いずれにしても、われわれの働きかける相手は個人である。
なぜなら、「集団心」というものも、結局のところ、その集団を構成している個人の心によって決定されるものだからである。

善と悪の戦いが行われ、最終的な勝敗が決せられるのも、個人の孤独な心と魂の中においてである。

あらゆる人間の悪の根源が怠情とナルシズムにある、ということが子供達に教えられるようになることを私は夢みている。
人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供達に教えるべきである。
集団の中の個人は自分の倫理的判断力を指導者に奪われがちになるが、われわれはこうしたことに抵抗しなければならない、ということを子供達に教えるべきである。
自分に怠情なところがないか、ナルシズムはないかと絶えず自省し、それによって自己浄化を行うことが人間一人ひとりの責任だということを、子供達が最終的に学ぶようにするべきである。
この個人の浄化は、個々の人間の魂の救済の為に必要なだけではなく、世界の救済にも必要なものである。

邪悪な人間の特性として、他人を道徳的に邪悪であると批判することが挙げられる。
自分の不完全性を認識出来ないこうした人間は、他人を批判することによって自分の欠陥の言い逃れをせざるを得ない。また、必要とあれば正義の名において他人を破滅させることすらいとわない。

現実には、判断、特に道徳的判断を下すこと無しに、きちんとした生活を送ることは不可能である。
われわれはさまざまな決定を下しながら毎日を過ごしているが、その決定というのが判断であり、その多くが道徳的含みを持った判断である。

人間の存在する意味を明確に認識することは、結局のところわれわれには出来ないことかもしれない。

しかし、それでもなお、自分の人生を、最良のかたちで生きることはわれわれの義務である。
これはまた、人生を支えていくうえで必要な道徳的判断を下し続けていく、ということをも意味するものである。
偉大な精神的指導者達が既にその基礎を与えてくれてはいる。
しかし、結局は、道徳的判断を下さなければならないのはわれわれ自身である。

われわれは科学を「真理」と見なすように習慣づけられている。現実には、科学的知識といわれているものは、ある特定の専門領域で研究を行っている科学者たちの多数の判断によって、いま現在身近にあるものの中では最も真理に近いとされているもの、というだけである。
真理とはわれわれ人間が手にしているものでは無い。
真理とは、到達しようとの期待をもって立ち向かうべき目標のことである。

われわれは、けっして、自分自身のリーダーシップを放棄してはならない。

議論こそが真の科学の礎石となるものであり、議論や熱気に溢れた懐疑主義を排除した科学は、およそ科学とは呼べない。

人間の生存に対する主な脅威は、もはや外部の自然界からでは無く、われわれの内部から生じている。世界を危険におとしいれているのは、われわれ自身の不注意、敵意、利己心、自尊心、そして意図的な無知である。
人間の魂に存在する潜在的な悪の力を封じ込め、これを変質させない限り、われわれ人類は滅びてしまう。

まず第一に、破壊によって悪を効果的に制することが出来るなどという単純な考えを捨てなければならない。
悪は愛によってのみ封じ込めることが出来る。

愛の道は、対立するものの間の動的バランスであり、安易な両極端の道では無く、その中間にある不確実性の苦痛を伴う創造的緊張の道である。
これについては、子育てを例に考えてみれば分かる。
子供の誤った行動の全てを拒否することは、愛の無い育児である。
また子供の誤った行動の全てを容認することめた、愛の無い育児である。
子供を育てるときには、何らかの形で、寛容と非寛容、受容と要求、厳格性と柔軟性の両方が必要となる。
相手に対する、ほとんど神に近い共感を必要とするのである。

「平気でうそをつく人たち」(1983)
M.スコット・ペック

追伸
もちろん産まれてから、どんな人も集団、ジャンルに属す事になると思いますが、バンドくらいならまだ笑える範囲ですが、企業や政治や宗教、学会は、個人がしっかりと独立した精神を持った集団でない限り(そんな集団珍しい)、危険な集団になりやすいですね。
人種差別、戦争、集団虐殺、原発産業、軍需産業、医療、薬品メーカー、大手メディアなどの企業の集団犯罪、その隠蔽。
そしてある一部の財閥集団が営む慈善団体や金融、ギャンブル経営などが象徴的になると思います。

また個人としても、表に、派手に出ている人達だけではなく、近所の市井のおじさん、おばさんで、妙な正義感のなか、自分がヒーロー、ヒロインになったつも りで、相手に非をぶつけることもよくあると思います。誰の中にも正義感と悪意がエゴ、ナルシズム、自己愛、自己肯定(防御)として存在し、その自分の内面 の不完全さを隠蔽、拒否すると、邪悪さがムクムクと育ち、他者を悲しませる出来事が起こるのかもしれません。。

にしても、2日間で読み終えましたが、携帯でポチポチメモるの大変でした…頼まれてる訳でもなく笑、浄化?

20160621
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