No.139 サルに探る文明の起源

Apr 20, 2017


「父という余分なもの〜サルに探る文明の起源〜」
山極寿一

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狩猟と肉食が人類をつくったのではなく、仲間との連帯と共食への願望がもたらした「与える分配」が人類を二足で立ち上がらせたところに人類進化の出発点があったのである。
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もし集団が閉鎖的で外部と遺伝子の交流が無ければ、次第に劣勢遺伝子の組み合わせが増加して病気に対する抵抗力や繁殖力が低下し、その集団は存続出来なくなる。
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私たち人間は、新しい土地を訪ねたり見知らぬ集団に加入する際に、遊びを新しい人間関係を作る常套手段として用いている。新参者が、子どもとの遊びを通じ て集団に組み込まれていくことが、多いのは、人間社会でも遊びは子どもの特権であり、遊びがパスポートとしての役割を果たしているからである。
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自然淘汰は種間の競合を通して種の数を減らすのではなく、種の数を増やすように働くと考えることができる。競合は負のフィードバックだけではなく、正のフィードバックをも生み出すのである。
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多様性と複雑性は、人類の進化のそもそもの始まりから必然的な変化のテーマだったと考えることができる。そして、それは人類の行動様式のなかに入り込んで、ついには人類の意識や思考を発達させる源泉となったのである。
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ネアンデルタールとクロマニヨンの間で混血は起こりうる。
ネアンデルタールの系統は絶滅したと考えられているが、その遺伝子が現代人の中に残っていることが判明した。
現代人とネアンデルタールは1万年ぐらいヨーロッパや中東で共存している。
ネアンデルタール人より古いタイプの人類ホモ・エレクトス(北京、ジャワ、マパ、ソロetc原人)とも現代人はアジアで共存している。
さらに古い時代には、人類誕生の地アフリカでホモ・ハビリスとアウストラロピテクスという別属の人類が、数十万年の間、共存していた。
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いま、現生人類の起源は10-20万年前、アフリカにある一点にあるという見方が大勢を占めているが、現生人類がばらばらに誕生したという見方もある。
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霊長類(哺乳類)の社会構造を動かすシャフト的な役割を果たしているのは、インセスト(近親相姦)の回避である。
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現代人が持っている特殊性は、別の人類と共存するプロセスで開発されてきた。
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1200万年前に東アフリカで起きた地殻運動後、
500万年前から400万年前に人間が立って歩き始める。
150万年前、ホモ・エレクトスにいたる課程、人類の祖先と類人猿たちの祖先は同じ場所にいた。
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「抑制と同調」
抑制:
食物を採取するとき、その場で食べず、仲間のもとに持ち帰る。分配する時、自分の欲望をあらわにせず秩序を保つ。
分配した食物をみんなで食べる為に自分を抑制し、共食という場を持つ。
同調:
相手の欲望を自分の行為に取り入れること。
この抑制と同調によって、はじめて共食が成り立つ。
そしてこの共食こそ、類人猿の食事から人間の食事へ移行した最初の第一歩だと思われる。
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シャーマニズムの根本は憑依であり、自分が違うものになること。
違う人間、動物や木にさえなる。
つまり自己否定こそ自己の起源であり、この逆説が発生した段階で、埋葬や踊りといったものが、いっせいに起こり、宗教の起源にもなる。
類人猿は埋葬も踊りもできない。相手の立場に立ってものを考えることも、おそらくできない。
人類の食事の分配というのは、他人の欲望を自分のものにして考えないと成り立たない。
自分から離れて他人になることが、一種の快感であり、他人と自分の障壁を故意に取ることで、非常に特異な社会構造が生まれた。
例えば
アメリカに行って数年経って戻ってくると、すごくアメリカ的な身振りや雰囲気を身につけて帰ってくる。これは人間の能力を端的に表現している。
憑依というものを通して、自分を変えることができるという能力は進化の早い時期に獲得したと思われる。
この能力を近代は否定してきた。
個性というものとは逆説的。
集落が都市国家になり、帝国になり、また近代国家になっていく鍵が、身体という文化、文化としての身体に深く関わっている。
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食べ物を確保すること、繁殖をすることのために動物は群がっていると言っても過言ではない。
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どちらかというと、父親、オスは群れにとってアソビの要素を強く持っている。つまり、変容でき、役割を変えることができる要素を持っている。
だから父の要素は文化になりやすく、父性の登場は文化の発生と密接に関わる。
いってみれば、父親というのは、父親である必然性がないので、それを維持するために文化的なものが必要になる。
生まれたときから共同の基礎を持っていないものが、共同体を支えなくてはいけないので、何かの認知、集団的な認知が必要になる。
前提として、ゴリラ以外の霊長類はみんな乱行的な生殖により、父親が誰かはわからない。
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ゴリラは、他のオスを排除して、息子だけ自分の集団に残しておく。
チンパンジーは、オス同士が固まって、そのなかで勢力争いをして一番、二番を決める。その決め方も、オス同士の結束の方法によって、状況、集団によって千差万別である。
まったく違う形の社会を作っているが、ゴリラとチンパンジーは同じ森で共存している。
こうした違いをもって共存しようとする力が働き、それが互いに異なる社会性を発展させてきた。
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メスの場合、発情期にあるというパスポートさえあれば何処にでも移動できる。
霊長類は一般的に異邦人に惹かれる傾向がある。
ニホンザルはメスでなく、オスが移動する。
そのなかで自分の群れのなかに滞在しているオスより、外から来た新しいオスに性的な興味を示す。
日本人が外国人のタレントが好きなのは、サルの時から笑
ゴリラのメスにしても外からのオスに惹かれ、それにポッとついて行って、そのまま帰ってこない。
旅というものは、性的な要素を抜きに考えられないし、繁殖の問題がベースにある。
現在、民族というものがあるが、人間は民族を超えていく方向にある。
つまり混血していく傾向をもった動物だと考えることができる。
個体は移動していく。
両方の性が移動する社会は少ない。どちらかの性が移動する。
人類は類人猿の系統にあるので、女が移動する社会を根本的に存続させている。
類人猿も月経を迎えたばかりで妊娠しない時期は、妊娠しないので非常に奔放な性行為をする。
また広範囲に動く。
ストイックな性の表現をするゴリラでさえ、その時期のセックスはかなり奔放で、乱婚的になる。
ところが、子どもを持つと類人猿すべてのメスは動かなくなる。つまり子どもを産むことが、メスの移動を中断させる。
でも、子どもが大きくなって自分の手を離れると、また動きだす。
メスが子どもを持つというのは、自分の安全に加え、子どもの安全を確保しなければならない。誰が自分を守ってくれるかがメスの課題で、集団としてのオスか、あるいは一頭のオスに託すか。
複数のオスに託す場合でも、お尻を腫らせ続け、興奮したオス同士を戦わせようとする。
メスが性的な魅力を振りまくのは、オスを群れさせるが団結はさせないためである。
そういうタクティックスがメスにはある。
人類はそういった基本的路線のある社会に乗っている。
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チンパンジー、ゴリラは発情期を隠せない。
オランウータンが人間に近く(目配せや声も含めた)技巧によって発情する。
人間の場合は、好きだよとか、きれいだよとか手練手管を、前戯としても行っている。
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15人から50人が集団としての効率的な数で25人が魔法の数と言われている。
その中には妊娠している女性および子どもがいて、成人男性が何人かいる集団。
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狩猟採集民でも、みんながオールラウンドプレイヤーで、個として、他の人の助けを借りなくても自分の生活能力をまっとうできる。ということは誰もが交換可能で、歯車の様に噛み合っているのではなく、個人が独立している。
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その上での共同意識が人類の特性としてある。
それが「愛」であり、相手に乗り移ったり、自分が相手に乗り移られたりする。
この場合の基本的な条件は、個々は別々であるということになる。
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憑依ということが出来るようになってから「愛」が生まれた。
個があったからこそ憑依が可能になった。
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脳の大きさは変わっていない。
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チンパンジーは自我、つまり自意識を持っていると言われる。
他の猿(霊長類以外)には無い。
チンパンジーは社会構造のなかで類推という課程を置くことが出来る。
自分と他者をわけることが出来る。
つまり他者はこうするだろう、自分がこうするとどうなるのかと仮定できる。
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恋人と母親を両方やることは生理的に出来ない。
メスは乳をやっている間発情しない。
ボノボは例外で、子どもには母親として接しながら、オスにはメスとして接する。
逆説的だが、たくさんパーソナリティがあるからこそ、自我があるとも言える。
何ものかに憑依出来るからこそ、自我が必要になった。
役割演技が出来ることが、自我の形成と密接にかかわっている。
人類進化のかなり初期の段階で舞踏的なものが生まれ、次いで演劇的なものが発生した。
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ユーモアというのは会話の文脈というか、相手と自分というのを、他からもういっぺん客観的に見なくてはいけない。
相手と自分というのを考えてみて、それで別の答えを用意して、相手を混乱させる。
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遊びはふつう起こる文脈を変えること、つまり少し離れて操作的に仮想の状態に持っていって何かをやることに心理的な喜びを催すこと。
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言語の発生は、メッセージから。
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個体の行為によって経済的な価値が生まれる段階から、声が意味を帯びるようになったと考えられる。
例えば
誰かの所有物に交換財としての価値が認知されると、それに付与する名称が決まる。
それがあったからこそ言語的な音声が決まる。
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遊びというのは、優劣を反映しない行動で、優位者が抑制することで成立する。
しかも遊びは同調を基本とする。
ふだんの自分の姿を変えて、文脈をズラすことで遊びの喜びが出てくる。
経済的な目的から外れた行動だからこそ、遊びがそのまま快を追求することになった。
遊び自体が快楽で、経済的な目的から外れた行動。
言い方を変えれば、何かをやりとりする事が楽しい、だから一緒にいる、そういう感覚が社会的に芽生えてくる。子どもたちが一緒にいるのはまさにそれ。
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仮想の世界を作ることによって、一種の精神の快楽と安定を得ているし、この能力が実は社会の内容を変えた可能性がある。
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人間はお互いに性器を接触しあうとか、そういう行動が人前で露呈されることを常に避けてきた。つまり性を公にせず、プライベートとパブリックを分けてきたその起源は古い。
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ニホンザルはひとつの集団はせいぜい数十頭だが、餌付けで増やせば高崎山のように千頭を超えることもある。
数が増えると疎遠な者が増え、優劣も曖昧になる。
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人類の家族を霊長類の集団と比較してみると、両者を分けるものは社会学的父親が存在するかしないかという違いである。
必ずしも生物的な繋がりを必要としない父親という存在こそ、初期の人類が最初に考案した文化装置だったわけである。
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自分で腹を痛めることのないオスは、父親となるためにある種の不確かさを、払拭する約束事のような仲間との合意を必要とする。それが虚構の源泉であり、人間が社会という文化を持つ出発点だと考えれる。
文化とはある社会の構成員が共有する計画性である。
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家族と共同体は二つの相反する論理から成り立っている。
家族は子育てを根本原理として作られているので、えこひいきが当たり前の組織である。子供にとって無条件で自分を愛し保護してもらう環境が必要なので、育てる方は何よりもそれを優先する。
しかし、共同体の中では基本的に互酬的に振る舞うのが原則で、何かしてもらえば、お返しをしなければと思う。
それが人々に集団への愛着心とアイデンティティを与えている。
これはときとして家族の論理と衝突する。
この二つを両立させることができないからこそ、人間以外の霊長類はそのどちらか、つまり家族的な群れが、家族のない集団かを作って暮らしている。ゴリラは前者、チンパンジーは後者である。
なぜ人間はこれらを両立できる家族と共同体を作ったのだろうか。
その答えは父親にある。
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父親を捨て家族を解体することは、人類の歩みが始まって以来の文化と決別することなのである。
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愛さないと見えないものがある
マックス・シューラー
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共同の子育てを通じて家族と共同体の両立を図る課程で、仲間に同調したり、共感したりする能力が向上した。
人間社会の根本となっている共感や同情といった感情は、知能の発達だけでなく、共同の子育てによって高まったとも言える。
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人間の社会はそもそも効率化を目指して組み立てられたわけではなく、むしろ頭でっかちで成長の遅い子供をたっぷりと時間をかけて育てるという、効率化とは逆の方向で作られたのである。
そこに人間の豊かさと幸福が宿る。
古き時代に戻ろうというのではない。
人類の進化を突き動かしてきた舵を見失ってはいけないといいたいのである。

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