NO.211 「禅とオートバイ修理技術」

May 08, 2019

「禅とオートバイ修理技術」
ロバートMパーシグ
「Zen and the Art of Motorcycle Maintenance」
Robert M Pircig

 

 

先日のOnenessMeeting終了後、
長年の友人であるSinkichiからこの本を教えてもらい、
昨晩やっと読み終えた。

 

本を読む、レコードをちゃんと聴く、
もっと言えば
ちゃんと人の話を聴くという行為そのものが、
主体と客体を融和させる行為で、
ある意味「禅」的な行為なんだな、
と近年思っていて、
想像してたよりも相当狂った
サイケデリック?哲学?精神世界?
親父と息子の微妙な人間関係劇?
なこの本は良い勉強になった。

 

偶然?1974年に発刊されていたこの本は
ZEN RYDAZとは直接は関係無いが、
バイク乗りとして、クオリティを求め、
求められる仕事に従事している立場上、
本当に読んで良かったし、
未だ名著として世界中で読まれているこの本の内容含め、
世界、こと人間の複雑怪奇な内面世界は
未だ誰しも無関係でいられず、
関心をよせられているわけで、
今後も狂気スレスレなクオリティを求めつづけよう
と思ったのだった。

 

下記名ワードの抜粋。

 

完全な確信を持っていることに身を捧げる人は決していない。
明日もきっと太陽が昇ると熱狂的に騒ぎ立てる人はいない。
それは誰でもよく知っていることだ。
政治的あるいは宗教的信条に、
またその他の教義や目的に熱狂的に身を捧げるのは、
絶えずそれらに疑問を抱いているからなのである。

現在とか、未来とか、
そのどちらに目を向けても全く意味がない。
しかし逆に過去を振り返ってみると、
あるパターンが見えてくる。
そこでそのパターンから抜け出してみれば、
ときには何かに辿り着けることがある。

 

過去3000年を振り返ってみればいい。
現在のあらゆるものを作り出してきた
整然とした因果関係の鎖とそのパターンが見えるはずだ。

 

理性を超えた領域に踏み込むこと。

 

現代の理性は、
地球が平らだと考えていた中世期の理性と対して変わりが無い。
理性を超越してしまうと、向こうの世界、
つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。
そして誰もがそれを非常に恐れている。
この狂気に対する恐怖は、
かつて人々が抱いた地球の端から落ちてしまう
という恐怖にも勝るとも劣らない、
あるいは異教徒に対する恐れもこれに匹敵する。
しかし従来の理性は、
年々積み重なる私たちの経験に対処するには、
ますますその能力が低下してきている。

 

そしてこれがいまや世界的な混迷感を生み出しているのだ。
その結果、非合理的な思考の持ち主がますます多くなっている。
例えば、オカルト、神秘体験、麻薬などがそうだ。

 

古典的な理性によっては、
真の体験に対処しきれないと思っているのだ。

 

古典的理性には、抽象芸術を理解する能力は全く無い。
抽象芸術を「意味」が無いと非難する人もいるが、
間違っているのはその「意味」を求める古典的理性であって、
抽象芸術の方では無い。

 

古典的理性には抽象芸術を理解出来ない。

 

理性の枝葉を拡大すること、
さらにそれによって
現在の芸術の流れのおおかたを掌握することが
古典的理性の進む道なのだ。

だが答えは枝葉にあるのではない。
その根にあるのだ。

 

 

クオリティ
まとまり、鮮明さ、説得力、統一性、感性、透明感、力強さ、
流動感、緊張感、輝き、正確さ、つり合い、深み

 

 

目標を意識せずにひたすら登っている人が、
最も高いところにいる
クロムウェル

 

 

クオリティが無くても世界は機能出来る。
だがそれでは人生は死ぬほど退屈だろう。
そんな人生には価値がない。
価値という言葉は、クオリティと密接な関係にある。
価値や目的がまったくなければ、
人生はただ生きているだけのことにすぎない。

 

堅さ
スクウェアネス
これこそクオリティ不在の世界を要約する言葉だ

 

柔らかさと堅さ
古典とロマン
テクノロジーとヒューマニズム
このように世界を二つに分ける言葉があれば、
それが逆に分離した世界を再び統合できる存在になると
私は考えている。
真に<クオリティ>を理解するということは、
ただ単に「システム」に仕えることではないし、
またそれを打ち破ることでも、
そこから逃避することでもない。
それは、「システム」そのものをがっちり捉え、
これを飼い馴らし、
自分個人のために利用することなのだ。
また同時に、みずからを完全に解放し、
自己の精神的宿命を全うすることなのだ。

 

芸術とは高いクオリティを求め尽くすことである。

 

芸術とは、人間の創造物に顕示される神性である。

 

良いと思われるものを見抜いて、
その理由を理解し、
作業のなかでこの良さと一体になることが、
内なる安らぎ、つまり心の落ち着きを培い、
ついにはその良さを輝き出させるのである。
あえて内なると言うのは、
心の落ち着きは外的な情況とは直接関係ないからである。

 

瞑想にふける僧、激戦の兵士、
そして
最後の一万分の一インチを削り取ろうとしている機械工にも
それは訪れうるのだ。

 

そこには常に無我(Unselfconciousness)の状態が伴い、
それが外的情況との完全な同一性を生み出すのである。
だがこの同一性や心の落ち着きを得るには
いくつかの段階があり、
そのうえ極めて底が深いため、
達成するのははかなか難しい。
それに山の頂を極めて心の落ち着きを得ただけでは
無意味である。

 

いわば山に対する海溝をも併せて考えなければならない。
自己認識は、
心の落ち着きがあって初めて生まれるのだから。

 

<クオリティ>とは、
私達に生きる世界を創造させる連続的刺激である。

 

人間が宗教を生み出したのではなく、
宗教が人間を生み出したのである。

 

得るものあれば、必ず失うものがある
ソロー

 

人間は弁証法的な真理によって世界を理解し、
支配する力を得たときに、あまりにも大きなものを失った。

 

人間は、自然現象を操作することによって、
力と富という人間自身の夢を
現実のものにできる科学帝国を築き上げたが、
それと引き換えに、
それと等しい悟性の帝国を失った。
すなわち悟性が世界に敵対するものではなく、
その一部であることを認識できなくなってしまったのである。

 

人は自分に恐れるものがあると、
常にそれを他人のなかに見出して非難するものだ。

 

人間の想像力を抜きにしては、この世には何も存在しない。